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2006年8月11日 (金)

「フェミニズムはみんなのもの」だって、騙された俺がバカだったよ

【「『男性のセントラリティ(中心性)』という現状認識がフェミニズムの大前提」ですか、そうですか】

・コミットメントを欠く「フェミニズムへの助言」への懐疑
http://macska.org/article/151
(※改行の関係で引用が読みにくいので、原文に当たることを推奨)

フェミニズムの運動は社会における男女の平等を主張しつつ、現実の政治的行動において必ずしも女性の問題と男性の問題を対等に扱うということはしない。それは運動内において「男性のマージナリティ(周縁性)」が「フェミニズムの条件」(フェミニズムにおいて男性は周縁化されるべき)だからなのではなく、社会における「男性のセントラリティ(中心性)」という現状認識がフェミニズムの大前提だから。わたしはフェミニズムが女性だけのものだとも、女性だけを救済するものだとも思わないけれども、男性と女性とでは同じようにフェミニズムに関わることはできないと思う。男性と女性ではフェミニズムが問題とするジェンダーの権力構造における立ち位置が違うのだから、男性がフェミニズムのあり方についてあれこれ意見を言うのであれば加藤氏が言うような自己観察的な「警戒」が決定的に必要になる。それは男性を周縁化しているわけではなくて、男性が中心に居座っている(あるいは否応もなく居座わらされている)ことへの倫理的な態度を求めているのね。

上野千鶴子氏や kmizusawa さんの言う「フェミニズムには男性を救済する義理はない」という発言を、ただ単に「女性問題は女性が、男性問題は男性がやるべきだ」という自己責任・自己救済論として解釈するのは間違い。かれらの発言にはその大前提として「社会における男性のセントラリティ」という現状認識があるから、周縁化された集団の地位向上を目指す運動であるフェミニズムは、中心にいる集団への配慮を求められるいわれはないと言っているわけ。つまり、フェミニズムに「男性を救済する」義理がないのは、フェミニズムが「女性」のことだけを優先する運動だからなのではなく、「男性」という集団が中心化されているからだ。

この点はきちんと言っておかないと、フェミニズムの立場から「少数民族やクィアの問題はかれら自身がやるべきでフェミニズムとは関係ない」という主張を容認してしまうことになる。わたしは決してフェミニズムが「女性」の利害だけを最優先する運動だとは思っておらず、より普遍的に社会的公正を追求するものだと思っている。さらに言えば、フェミニズムは「弱者男性」に配慮しろという議論をわたしは認めないけれども、パートタイム労働者・派遣労働者・日雇い労働者・家庭内労働者など不安定かつ低収入で働いている人たちーーその多くは女性ーーやその他の社会的弱者に配慮し、かれらを積極的に支援する義務なら、あると思っている。

「パートタイム労働者・派遣労働者・日雇い労働者・家庭内労働者など不安定かつ低収入で働いている人たちーーその多くは女性ーーやその他の社会的弱者に配慮し、かれらを積極的に支援する義務なら、あると思っている」のに、「「弱者男性」に配慮しろという議論をわたしは認めない」ときましたか。なるほど、なるほど。

で、その理由が「社会における「男性のセントラリティ(中心性)」という現状認識がフェミニズムの大前提だから」ね。

なんのことはない。早い話、大前提としてフェミニズムにとって「男」は批判対象であり「敵」だから、他の「弱者」とは扱いが違いますよ、ということじゃないですか。macskaさんは、

フェミニズムに「男性を救済する」義理がないのは、フェミニズムが「女性」のことだけを優先する運動だからなのではなく、「男性」という集団が中心化されているからだ。

と書く。でも僕にはこれは「男性という集団が中心化されている」から、「フェミニズムは「女性」のことだけを優先します」と言っているようにしか読めなかった。makskaさんは、「パートタイムや派遣労働者」への支援について語るとき、ご丁寧に「ーーその多くは女性ーー」という注をつけることを忘れない。この事実も、「フェミニズムは「女性」のことだけを優先します」というmakskaさんの思想を雄弁に物語っている。


【「男性のセントラリティ(中心性)」を自明としない僕は、フェミニズム的に「ありえない」ようだ】

http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2006/07/post_95cb.html
実際に抑圧されているのは「男」でも「女」でも「ゲイ」でもなく、「社会から求められるジェンダー規範に乗れない/乗りたくない人たち」ですよ。社会規範に乗れている人たちは、どんなジェンダーを持っていようと、抑圧なんかされていないんですよ。対立しているのは「男VS女」ではなく、「規範適応者VS非(不)規範適応者」ですよ。

僕が↑の記事で主張したのは、まさに「社会における「男性のセントラリティ(中心性)」という図式自体を疑い、「規範適応者VS非(不)規範適応者」のほうが現実に即しているだろうということだった。

でも、なるほど。僕の主張はフェミニズムの大前提を覆すものであり、フェミニズム的には絶対に認められないものだったというわけですか。

これに似たようなことは、最近読んだ記事によると上野千鶴子氏も言っているようだから、これはmacskaさんの個人的な見解ってわけでもないんだろう。

http://www.pressplan.jp/08seisho/index.html
上野千鶴子は、マルクス主義的フェミニストである。マルクス主義的フェミニズムは、男性/女性の関係をブルジョワ/プロレタリアンや先進国/発展途上国といった搾取/被搾取、強者/弱者の関係で捉え、後者の前者からの解放を主張する。

そうなってくると、そもそも「男性のセントラリティ」や、「男性=強者、女性=弱者」という図式自体がおかしくね?と考える僕は、フェミニズム的には本当に「ありえない」存在なんだろうな。最優先リストラ対象どころか、「つーか、そもそも敵?入社資格ねーし?」みたいな?

うん、もやもやが解けた。早い話、僕はフェミニズムってものを勘違いしていたってことですね。

http://www.wako.ac.jp/~hotta/lesson/print/text/teigi.html
フェミニズム運動が進む中で、女性たちは、性差別的な意識や行動を支えている集団は男性だけではないことを悟った……女性もまた、性差別的でありうるのだ。男性敵視感情はもはや、女性運動を支えるものではなくなった。運動の焦点は、あらゆる点でジェンダーにおける公正さを求めることに移ったのである。

これは少し前に読んだ「フェミニズムはみんなのもの」っていう本の一文。これは僕のジェンダーに対する考え方に近い。だから共感した。でもなんだ、結局フェミニズムは「みんなのもの」ではなく「女のもの」だったということですか。

いやね、フェミニズムが「女のもの」なら、それはそれでいいんですよ。ただ、↑みたいな本とか、「ジェンダーフリー」ってスローガンに、うっかり僕が釣られただけですから。変に期待しちゃった僕がバカでした。今後は「フェミニズムは女のもの」として、正しく認識を改めることにします。本当にありがとうございました。


【追記】
ちょっと気になったので、一応追記。

「『弱者』一般の支援をことごとく否定し、『弱者男性』の救済だけをことさら主張する一部論者」を批判してきた。

mcskaさんは、僕が「フェミニズムに自分のアジェンダを押し付けようとしている可能性がすごく大きい」とか「男性の側に利益誘導」しようとしているように「見える」と書いているから、この「一部論者」に僕が入っているのかも知れないけど、もしそうだとしたら、非常に心外。僕があの記事で書いたことは、

・「男=強者、女=弱者」自体がおかしくね?
・むしろ「規範適応者=強者、規範不(非)適応者=弱者」じゃね?
・「規範不(非)適応者は抑圧されても仕方ないの?」は、もっと普遍的な「弱者」にも広く適用できる概念じゃね?
・フェミニズムはそういう運動だと思っていたのに、ガッカリだ!*1

の4点で、「『弱者男性』の救済だけをことさら主張」なんてしていない。もし僕も含んで「一部論者」と言っているのだとしたら、それはもの凄い誤解。ここはハッキリと、声を大にして指摘しておく。

僕が批判しているのは、「『弱者』一般の支援」に「弱者男性」を含むことを、フェミニズムはなぜ認めないのかってこと。これについてはフェミニズムの大前提として、「社会における「男性のセントラリティ(中心性)」という現状認識」があるということで、一応納得した。

もっとも、その大前提自体を、僕は認めませんけどね。


【追記2】
今回の記事では、macskaさんのいう「男性のセントラリティ」を上野千鶴子氏がいう「男性=強者」と同じ意味だと読み取ったけど、macskaさん的にはこのふたつは違うものなんだろうか?ちょっと気になった。もし違うなら、どこが違うんだろうか?

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*1 ちなみに僕の言うような主張は、「フェミニズム」より「クイア」が近いらしいと最近知った。

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