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2007年6月29日 (金)

「平等」を実践するための、たったふたつの方法。そして対立概念としての「愛」。 ~真説 ザ・ワールド・イズ・マイン~

【真説 ザ・ワールド・イズ・マイン】
※ 完全ネタバレ注意。

Worldismine

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻
作者: 新井英樹
出版社/メーカー: エンターブレイン
発売日: 2006/08/31
メディア: コミック


愛と平等は、相反する概念である。なぜなら愛とは、その愛する相手を特別扱いし特権化することであり、「愛する人」と「その他の人」の間に格差を作ることそのものだから。これは非モテ界隈で数年議論に関わってきて、僕が学んだ真理のひとつ。

そんなことを考えながら、「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」4巻~5巻に登場する、三人の警部の物語を読んだ。「ザ・ワールド・イズ・マイン」は非常に複雑な作品で様々なテーマが絡み合っているが、僕が特に興味を引かれたのは、この三人の物語だった。


【「人権派」塩見、「感情人間」薬師寺、「合理主義者」須賀原】
この作品には、「塩見純一」「薬師寺喜治」「須賀原譲二」という、三人の異なった個性を持つ警部が登場する。

・塩見はヒューマニズムに溢れた人権派。
・薬師寺は直情的な感情人間*1
・須賀原は冷徹な合理主義者。

三人は、作中でこのように描かれる。彼等は、凶悪無差別殺人犯として全国手配された「トシ」と「モン」(以下『トシモン』)を追いかけている。

ある日、秋田市街にトシモンが現れ、住民に向け無差別射撃。無差別大量殺人が行われる。トシモンには同行する女(阿倍野マリア)がおり、彼女が人質なのか、あるいはトシモンの仲間なのか、警察側にはハッキリとはわからない。そんな状況の中、指揮官である須賀原は、ある命令を下す。

「私の責任の元に命ずる。(トシモンを)瞬時!射殺せよ!」

現場でトシモンの虐殺を目の当たりにし、怒りに震える感情人間薬師寺は、この命令を承諾。ヘリを使った空からのスナイプを計画する。

しかし、トシモンを狙撃するためにはどうしても女が邪魔になる。須賀原の命令は、要は「人質は無視しろ。殺しても構わない」ということだ。大量殺人犯を捕らえるためとはいえ、人質を危険にさらす作戦を警察が自ら進んでとることに問題はないのか?人権派塩見は、合理主義者須賀原に向かい叫ぶ。

塩見:「けっ警察は殺し屋ではねぇっす!殺して済むンだば警察いらねぇっス!『守るべき命と葬るべき命の選択』してはならねぇっス!正解なぎ問いを考えぬいでこそ人間ではないか!?」*2

しかし、須賀原はこの言葉に耳を貸さない。薬師寺も止まらない。スナイプに向かおうとする薬師寺に、塩見は問う。

塩見:「ひっ人質が補佐(薬師寺のこと)の娘さんでも殺すどおっしゃいますか!?」

薬師寺は応える。

薬師寺:「ナァオっ!!(NO!!)殺すわけねぇだろ誰が撃たすかよ、俺の娘だぞ。だが…幸いにして人質は俺の娘じゃ…ねぇんだ!こりゃ警察の…キャリアの…ピッカピカの特権だ」

薬師寺:「ハンパ…なんだよ。貴様はビクビクと人質を見限る理由を捜すバカだ。ハンパな知恵で屁理屈こねくりまわす舶来のバカ!もう一人のバカが言ってたろ。問題は命じゃねえ。社会と個人、どっちか選べってよ」

薬師寺:「集団・社会・国家・世界を統べる者たちも転覆を計る奴らも、必要なら殺す、知恵ある者はみんな殺してきたんだよ。殺すってのは倫理じゃねぇ…覚悟だ」

薬師寺:「もう一人のバカ須賀原、あいつは即答する。『娘であっても殺せ』とな…」


【「愛」「平等」そして「ヒューマニズム」】
薬師寺は、塩見に足りないものは「覚悟」だと言う。そして事実、須賀原の「覚悟」は半端なものではない。これは、トシモン捕獲作戦失敗の記者会見会場において、「人権を差別せよ。ヒューマニズムを差別せよ。社会と個人を秤にかけたとき、民主主義は迷わず社会を選択せねばならない」と言い残し、平然とした顔で公衆の面前で自殺するというエピソードにも現れている。

しかし僕は、「覚悟」や「社会と個人」とは別の角度……「平等と愛」という観点から、この物語を解釈した。塩見と須賀原は共に「平等」を重視する人間であり、薬師寺はこれとは対照的に、「愛」を重視する人間なのだと僕は思う。

薬師寺は、「自分の娘」と「その他の人間」の価値の間に、あからさまな主観的序列を作る。この思考は差別的だともいえるが、この差別こそが愛の本質なのだとも言える。仮に「身内」を他者よりも優遇したいという感情が人間の本能的なものなのだとすれば、「愛に生きる」薬師寺が「感情的な人間」として作中で描かれていることは、とても興味深い。

一方塩見と須賀原は同じ平等主義者だが、平等を実現させるための方法論が180度違う。塩見は「皆を等しく大切に扱う」ことにより平等を実現させようとする人間であり、須賀原は「皆を等しく粗末に扱う」ことにより平等を実現させようとする人間なのだ。

須賀原にとって人間の命には「平等に価値がない」*3。だからこそ須賀原の価値観における「命の優先順位」の最大の基準は「量」という合理的なモノになる(できる)。一人の人質を犠牲にすることで、その他大勢の命を救うことができるのであれば、躊躇なく人質もろとも殺人犯を射殺するべきだということになる*4

一方の塩見は、人の命すべてに等しく重い価値を置く。人質だけではない。多数の人間の命を奪った殺人犯の命すらも、その他の人間と同じように尊重するべきだと考える。「『守るべき命と葬るべき命の選択』してはならねぇっス!」というセリフは、その象徴だ。

しかし塩見のこの考えは、あまりにも甘い。塩見が自らの倫理からトシモンの殺害に二の足を踏む間にも、「同じように重い」ハズの命が次々に、トシモンの手によって奪われていく。塩見が「愛する」部下の命も、同じように。そしてこの塩見の甘い倫理は、最悪の事態を招くことになる。自らの部下の誤射による、人質マリアの射殺。

塩見は悩む。自らの倫理と判断は結局のところ、多数の命を奪う結果になってしまった。「人の命すべてに重い価値を置く」ゆえに殺人犯を殺すことができず、それゆえ「同じように重い」多数の一般市民や部下や人質の命が失われてしまった。「人の命すべてに重い価値を置く」塩見ゆえに、この悩みはなおさら深い。

さらに塩見は、自らの「愛」の感情との葛藤にもまた、悩まされる。雪山でトシを追い詰め、ついにふたりだけになったとき、塩見は「愛する」部下を多数殺したトシに殺意を抱き、拳銃の引き金を引く。しかし拳銃は弾切れを起こしていた。弾丸は発射されず、トシを殺すことは叶わない。

そんな塩見を見て、トシは愉快そうに笑う。「(自分と)一緒だ」と。塩見は更なる殺意を燃やし、怒りにまかせトシを殴りつける。

「『守るべき命と葬るべき命の選択』してはならねぇっス!」

そう言っていた平等主義者塩見自身もまた、命の価値に序列をつける人間だった。殺人犯よりも人質の命に、殺人犯よりも愛する部下の命に価値を置く。そんな「愛」を持った人間だった。トシに向かって沸き起こった殺意は、「愛」ゆえの殺意だった。

しかし「人の命は平等に価値がある」と考える塩見は、このことについてすらも悩む。恐らく塩見にとってこのケースでの「部下への愛」とは、「命の差別」に等しいことなのだろう。

しかしこれは、本当に「差別」なのか?合理主義者須賀原は、自殺の直前「この国のすべての人間に挑戦したい」と前置きし、こう言い放つ。

須賀原:「ヒューマニズムを差別せよ。その言葉の響きに酔いしれ思考を停止した者のみが殺すことをすべて悪とする」

須賀原:「人間とはあまりに不完全な度し難い生き物であるにもかかわらず、神をも恐れず懸命に守るべき命と葬るべき命を常に選択してきたのだ」

須賀原:「ならば、差別することも殺すことも、ヒューマニズムである」*5

「差別することも殺すことも、ヒューマニズムである」。僕はこの言葉を、「愛」と解釈した。


【「すべての人間を平等に愛する」ことの不可能性】
以上が、僕の個人的なこの物語の解釈である。僕はこの物語から、「すべての人間を平等に愛する」ことの不可能性を読み取った。そして塩見は、この不可能性に潰された人間なのだと思う。

「すべての人間を平等に愛する」ゆえに、「愛する」人間を救えないという塩見の逆説。「すべての人間を平等に愛さない」ゆえに、少数の犠牲を払い多数の人間の命を救うことを躊躇なく選択する須賀原。そして「愛する者だけを特別扱い」することにより、自分の周囲の人間だけを救おうと考える薬師寺。

差別。愛。平等。ヒューマニズム。錯綜するそれぞれの思想。

この物語では、凶悪殺人者トシモンの前に塩見の思想は全く通用せず、ことごとく「負けた」。しかし、「勝った」のはいったい誰なのか?作品ではこの件について、次のようにまとめている。

敗者 … 塩見純一 警部補。
勝者 … 不明。現在審議中。

「真説 ザ・ワールドイズ・マイン」1巻のインタビューで、作者新井英樹氏は自らの作品についてこう語っている。

「こっちとしては道徳の教科書を描いたつもりです」

僕は、まったくもってその通りだと思った。


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*1 ヨダレの演出が秀逸。

*2 塩見警部補は秋田出身なので、東北なまりがある。

*3 「人の命は平等に価値がない」は、無邪気に殺人を行える性分を持つ「天然の殺人鬼」モンのセリフでもあり、須賀原とモンはこの点で同じ価値観を持つ者同士だといえる。事実須賀原は、塩見やマスコミから「それではトシモンと同じだ!」という批判を受けているが、この批判は完全に正しい。

*4 須賀原があれだけ冷静に自殺を遂げることができたのは、彼が自らの命すらも「平等に価値がない」と考えていたからだと僕は解釈している。

*5 「人権」の評判が大変悪い昨今、2000年の連載時よりも、この言葉の支持者は増えていると思う。

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2007年6月 7日 (木)

褒めコミュの暴力性を自覚した瞬間

【褒めたいから、素直に褒めただけなんだ】
・吐き捨て
・私は女だけど、男とは性欲のかたまり、と思って付き合ってるから
・どんだけ男に夢見てんだよと

最初の記事は、男の性的視線がキモいという内容。後のふたつは男の性欲ってのはそんなもんだという意見。書き手はすべて女性。僕は後半2つの意見に共感する人間なので、それぞれの記事に↓のようなブクマコメントを残した。

・はてなブックマーク - 吐き捨て
Masao_hate 『なぜ性欲を持たれただけで「友情が成り立たない」となってしまうのかが不明。男という他者を理解しようという気持ちが全く感じられませんね。性欲も含めて人間だという発想はこの女にはないのか。 』

・はてなブックマーク - 私は女だけど、男とは性欲のかたまり、と思って付き合ってるから
Masao_hate 『貴方は大人の女性ですね。尊敬する。』

・はてなブックマーク - どんだけ男に夢見てんだよと
Masao_hate 『貴方も大人の女性です。素晴らしい。』

ここまで書いて、ふと気付く。後半ふたつの記事で、僕は褒めコミュを、しかもお世辞ではない心からの褒めコミュを行っているわけだけれども、1番目の記事「吐き捨て」に共感する人たちは、僕のブクマコメを読んでとても不快な気分になるだろうなと。

あぁ、コレはあれだ。「褒め」もまたひとつの価値判断であり暴力であるという、少し前にはてな界隈で話題になった、例のアレだ。

・月がでたでた月がでた - 「手榴弾」と「砂糖菓子」
ワタシにとっては、「誰かを褒めること」からして相当に勇気の要る行為だ。
誰かを「褒めること」も「けなすこと」も、実は「相手を自分の価値観の物差しによって評価付け、それを相手にハッキリ伝える」という点では同じ。

あぁ、まさに恋愛の素晴らしさが語られれば語られるほどに非モテ童貞処女の居心地が悪くなるかの如く、イケメン・美人が褒められれば褒められるほどにキモメン・ブサイクが抑圧を感じるかの如く、ある存在・価値観を「褒める」ことは、その対極にある存在・価値観を「けなす」ことに直結してしまうという、この「褒めの暴力性」。

この「暴力」に気付いた僕は、「尊敬する」「素晴らしい」という言葉を、一旦削除した。自分の暴力性に耐えられなくなったからだ。でもしばらく考えて、やっぱりまた書き戻した。たとえある価値観を持つ層に暴力を振るうことになっても、僕の評価を「この相手」に伝えたいと感じたからだ。伝えることに、価値があると考えたからだ。

どちらの行動が正しかったのか、僕にはよくわからない。

「褒めコミュ」は、「私は貴方に価値を感じていますよ」と表明し、相手に自信を与えるコミュニケーション様式だ。このこと自体は、価値あることだと思う。ただその裏側には、対極にある存在への「暴力」が常に備わっている。「差別」がある。このことに、せめて自覚的でありたいと僕は思う。

僕ははてな界隈に、理由もよくわからず生理的と言っていいほどに嫌いなIDの人が何人かいる。この嫌悪感の理由がずっとわからなかったのだけれど、これはどうもこの人たちが、僕が嫌悪する価値観を無邪気に褒めまくっていることに起因しているらしいと、最近気付いた。

そしてこの人たちへの僕の嫌悪感は、日頃から僕の価値観への嫌悪を表明している人への嫌悪感よりも、なぜかずっと強い。暴力性への「無自覚さ」が、自覚的な嫌悪を表明してくる人たちに比べ、より根深い不快感を刺激するのだろうか。自分が信じる価値観をけなされることよりも、自分が嫌いな価値観への肯定を示されることのほうが、人間は腹が立つものなのだろうか。

「褒めコミュ」は味方を増やすことに役立つとよく言われる。だが「暴力性」への自覚を欠いた褒めコミュは、自分でも意図しない場所で、結果的に多くの敵を作ることに繋がる可能性も秘めているのかもしれない。


【思いつきを追記 2007.06/08 AM.6:00】
今回書いた「褒めの暴力性」を踏まえると、上司が部下を褒めるとき、他の大勢の社員の前で褒めるという行為は、結構考えものかも知れない(ビジネス書とかでは推奨されてる気がするけど)。褒められた本人は嬉しいしやる気も出るだろうけど、周囲の人間がそれをどのように感じるか。

まぁそこらへんのフォローもしっかりやるのが良い上司ってことなんだろうし、あえて出来ない人間の劣等感を刺激して奮発させるって手法もあるからなぁ。個人的にはあんまり好きじゃないやり方だけど。

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2007年6月 2日 (土)

宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」を読んで、この「サバイヴ感」「決断主義」こそが、5年ほど時代遅れの感性だと感じてしまった

【正直、むしろ古いと思った】
・さて次の企画は - 95年エヴァンゲリオン文化圏の終わり--知的な塹壕としての「ゼロ年代の想像力」スタートと、よしながふみ「フラワー・オブ・ライフ」完結について

↑の記事で絶賛されていたので、産まれて始めてSFマガジンを買って、「ゼロ年代の想像力」を読んでみたんだけど……

ゴメン、これ書いてる宇野常寛氏の感性こそが、時代遅れだと感じてしまった。「セカイ系」が90年代的な時代遅れの感性だとしたら、「決断主義」は2000年代前半的な5年くらい時代遅れの感性だと思う。

この文章で宇野氏は、「バトルロワイヤル」「デスノート」「ドラゴン桜」「野ブタ。をプロデュース」といった作品のヒットと、そこに共通する「サバイヴ感」を挙げ、90年代に東浩紀氏らが持ち上げたエヴァをはじめとした「引きこもり的感性」「セカイ系」は、「そんなものでは時代を生き残れない」と感じた若者にとっては、「甘い」「時代遅れの」思想だとバッサリ。変わって主流になっているのがこれら作品に共通した「他人を傷つけてでも行動する」という「決断主義」だというのだけれど。

これって、5年くらい前の古い感性なんじゃないかなぁ。宇野氏がいう「決断主義」は、小泉元首相が行った「構造改革」や「自己責任」に象徴されるネオリベラリズム的な思想だと思うんだけど、これが主流として力を持っていたのは、せいぜい2~3年くらい前までだったと僕には感じられる。

たとえば2000年代前半に盛り上がり、僕も実践した「脱オタ」なんていうのは、まさに「決断主義」的な行動だと思う。でもこちらの記事で少し指摘したように、この界隈にはもはや、かつてほどの盛り上がりも切実さも、そして最大の特徴であった「必死さ」もない。脱オタ系サイト最大手のひとつ「いちからはじめるファッション入門マニュアル」は数年前から毒気を抜いた大幅縮小営業となり、「脱オタ」という言葉の語源にもなった「脱オタクファッションガイド」もとっくに更新を停止。そしてその後、これらサイトの後継となるめぼしいサイトも見当たらない。このことは、脱オタの衰退を如実に物語っている。

この背景には、ネットを初めとした仮想世界のインフラ発達によって、「社会」や「現実」の価値が相対的にどんどん下がっていき、「現実」がすでに「サバイヴ」するに値しない程度の価値しか持たないと判断する層の増加があると僕は考えている。つまり、脱オタしてまで必死に適応するほどに、現実には価値が無いと判断する層が増えているということだ。↓の宮台真司氏の文章などは、まさにこの点を指摘したものとなっている。

・「第二次惑星開発委員会」編集の『PLANETS』vol.3で森川嘉一郎氏と四時間対談しました

■当初の構想では、「ときメモ」的な舞台設定のために、ハルマゲドン(第三次世界大戦)による「この現実」のクリアランス(一掃)が要求されました。とても興味深い。学校時代が実際に地獄だったにせよ楽園だったにせよ、はたまた地獄ゆえに楽園を夢想したにせよ、人々が「あの学校」を生きられなくなるのは、大人になって〈社会〉の重力がのしかかるからです。だから、重い「この現実」をクリアランスしないと、「あの学校」を生きられないという感覚は、自然なものです。

■逆にいうと、それが自然であることが90年代半ばを象徴します。まだ〈社会〉の重力が強かったのです。ところが少し後になると、「あの学校」を生きるために「この現実」をチャラにするという設定が、要らなくなるのです。第三次大戦によるハルマゲドンが、「ときメモ」的な舞台設定のために要求されるということが、なくなる。〈社会〉の重力が弱まったのですね。いわば「この現実」が軽くなった。それはなぜでしょうか。

■最大の理由は、データベース的消費の一般化のおかげで、「この現実」というもののフレームが一挙に拡大したこと。加えて、過渡的な理由としては、オウム事件が新しい自己記述を与えたこともあります。現実に向けてまともに乗り出さないことについて、今まで言い訳が必要だったのが、言い訳がいらなくなったのです。むしろ逆に「基地外が現実に乗り出すのは危険だ」ということになった。こうして「この現実」がデータベース化して軽いものになりました。虚構も含み込んだ「軽い現実」になったのです。自己の恒常性維持に利用可能なものが全て「この現実」になった。その意味での「軽い現実」です。この「軽い現実」がセカイと呼ばれるわけですね。

強調筆者

僕の感覚的には、こっちのほうがはるかにしっくりくるなぁ。一般人の大量流入によってネットと現実の境界が薄れ、仮想社会が著しく充実してきている昨今、もはや苦労してまで「現実」に適応し、サバイヴしなくても昔ほどに困ったこと(「唯一の主流」的な共同体からの疎外とか)にはならなくなってきた。むしろリアルよりも虚構を生きたほうが、よほど充実した人生を過ごせると感じている人も多いと思う*1

つまり、90年代に種を蒔かれた「セカイ系」は、2000年代後半に「ネットの一般化」というインフラ整備の上で強化され、90年代よりもリアリティを持った新しいかたちに進化。いよいよ本格的に花開いた(宮台氏がいうところの『軽い現実』)。2000年代前半に一瞬起こったかに見えた「サバイヴ感」「決断主義」といった小泉ネオリベ的路線は、まだ「現実」が強い価値を持っていた時代の過渡期的現象に過ぎない。僕の考えを簡単にまとめれば、こういうことになる。

宮台氏の↑の文章が、宇野氏が編集長を勤める「PLANETS vol.03」に載っているということは興味深いけど、この本は明日発売ということなので、まぁとりあえずは買ってみて、どういうことが書いてあるのか拝見させていただくとしましょうか。


【追記 2007.06/04 AM.0:00】

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html
isnotit 決断主義は時代遅れ!ってのは宇野の人(反決断決断主義者・動員趣味者)も言ってたよ。/ネオリベ決断主義ブームがなけりゃ「現実が軽くなる」という季節も来なかったと思うけどね。

isnotitさんのこの指摘は非常に的を射たものだと僕は考えていて、たぶんシロクマさんもこのへんをターゲットにいま批判記事を書いている最中だと思うので(笑)、この点について簡単にお答え。

確かにisnotitさんが指摘するとおり、「決断主義」を通過した後でないと、人間は「軽い現実」に到達しにくい。なぜなら、一旦「決断主義」による試行錯誤を経過した後でないと、「現実」を相対化することが難しいから。だから宇野氏がいう「決断主義」は、まだ脱オタ等の「去勢」(転叫院さん的な使用法)を受けていない人間にとっては、いまでも充分に有効な言説だと思う。

ただ、それでもなおこの言説が時代遅れだと僕が言いたいのは、「決断主義」を経た上で、なお「仮想社会」を自覚的に選択するという層が、今後増えていくのではないかと考えているから。これを僕は「セカイ系2.0(仮)」(←ふるい)(いまさら2.0?)(死語)(←死語っていう言葉こそむしろ死語)(←あほのこだょ♪)とでも呼びたいとたった今考え付いたんだけど、この続きは次回の記事にでも書いてみようかと思います。

P.S ていうかこのネタは、クソタイ2の原稿に使おうと思ってたんだけどな……まぁいいや。ネットの「旬」逃がすのも嫌だし。

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*1 もっとハッキリ、「10年前とは異なり、インフラの発達によって『ネットのこちら側』」の充実度が上がり、現実の価値が相対的に下がって云々」と書かれている文章も少し前読んだ覚えがあって引用しようと探したのだけれど、残念ながら見つけることができなかった。

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