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2007年6月 7日 (木)

褒めコミュの暴力性を自覚した瞬間

【褒めたいから、素直に褒めただけなんだ】
・吐き捨て
・私は女だけど、男とは性欲のかたまり、と思って付き合ってるから
・どんだけ男に夢見てんだよと

最初の記事は、男の性的視線がキモいという内容。後のふたつは男の性欲ってのはそんなもんだという意見。書き手はすべて女性。僕は後半2つの意見に共感する人間なので、それぞれの記事に↓のようなブクマコメントを残した。

・はてなブックマーク - 吐き捨て
Masao_hate 『なぜ性欲を持たれただけで「友情が成り立たない」となってしまうのかが不明。男という他者を理解しようという気持ちが全く感じられませんね。性欲も含めて人間だという発想はこの女にはないのか。 』

・はてなブックマーク - 私は女だけど、男とは性欲のかたまり、と思って付き合ってるから
Masao_hate 『貴方は大人の女性ですね。尊敬する。』

・はてなブックマーク - どんだけ男に夢見てんだよと
Masao_hate 『貴方も大人の女性です。素晴らしい。』

ここまで書いて、ふと気付く。後半ふたつの記事で、僕は褒めコミュを、しかもお世辞ではない心からの褒めコミュを行っているわけだけれども、1番目の記事「吐き捨て」に共感する人たちは、僕のブクマコメを読んでとても不快な気分になるだろうなと。

あぁ、コレはあれだ。「褒め」もまたひとつの価値判断であり暴力であるという、少し前にはてな界隈で話題になった、例のアレだ。

・月がでたでた月がでた - 「手榴弾」と「砂糖菓子」
ワタシにとっては、「誰かを褒めること」からして相当に勇気の要る行為だ。
誰かを「褒めること」も「けなすこと」も、実は「相手を自分の価値観の物差しによって評価付け、それを相手にハッキリ伝える」という点では同じ。

あぁ、まさに恋愛の素晴らしさが語られれば語られるほどに非モテ童貞処女の居心地が悪くなるかの如く、イケメン・美人が褒められれば褒められるほどにキモメン・ブサイクが抑圧を感じるかの如く、ある存在・価値観を「褒める」ことは、その対極にある存在・価値観を「けなす」ことに直結してしまうという、この「褒めの暴力性」。

この「暴力」に気付いた僕は、「尊敬する」「素晴らしい」という言葉を、一旦削除した。自分の暴力性に耐えられなくなったからだ。でもしばらく考えて、やっぱりまた書き戻した。たとえある価値観を持つ層に暴力を振るうことになっても、僕の評価を「この相手」に伝えたいと感じたからだ。伝えることに、価値があると考えたからだ。

どちらの行動が正しかったのか、僕にはよくわからない。

「褒めコミュ」は、「私は貴方に価値を感じていますよ」と表明し、相手に自信を与えるコミュニケーション様式だ。このこと自体は、価値あることだと思う。ただその裏側には、対極にある存在への「暴力」が常に備わっている。「差別」がある。このことに、せめて自覚的でありたいと僕は思う。

僕ははてな界隈に、理由もよくわからず生理的と言っていいほどに嫌いなIDの人が何人かいる。この嫌悪感の理由がずっとわからなかったのだけれど、これはどうもこの人たちが、僕が嫌悪する価値観を無邪気に褒めまくっていることに起因しているらしいと、最近気付いた。

そしてこの人たちへの僕の嫌悪感は、日頃から僕の価値観への嫌悪を表明している人への嫌悪感よりも、なぜかずっと強い。暴力性への「無自覚さ」が、自覚的な嫌悪を表明してくる人たちに比べ、より根深い不快感を刺激するのだろうか。自分が信じる価値観をけなされることよりも、自分が嫌いな価値観への肯定を示されることのほうが、人間は腹が立つものなのだろうか。

「褒めコミュ」は味方を増やすことに役立つとよく言われる。だが「暴力性」への自覚を欠いた褒めコミュは、自分でも意図しない場所で、結果的に多くの敵を作ることに繋がる可能性も秘めているのかもしれない。


【思いつきを追記 2007.06/08 AM.6:00】
今回書いた「褒めの暴力性」を踏まえると、上司が部下を褒めるとき、他の大勢の社員の前で褒めるという行為は、結構考えものかも知れない(ビジネス書とかでは推奨されてる気がするけど)。褒められた本人は嬉しいしやる気も出るだろうけど、周囲の人間がそれをどのように感じるか。

まぁそこらへんのフォローもしっかりやるのが良い上司ってことなんだろうし、あえて出来ない人間の劣等感を刺激して奮発させるって手法もあるからなぁ。個人的にはあんまり好きじゃないやり方だけど。

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» [その他言及]褒め殺し [メモ]
「褒めコミュ」は、「私は貴方に価値を感じていますよ」と表明し、相手に自信を与えるコミュニケーション様式だ。このこと自体は、価値あることだと思う。ただその裏側には、対極にある存在への「暴力」が常に備わっている。「差別」がある。このことに、せめて自覚的であり... [続きを読む]

受信: 2007年6月 8日 (金) 13時26分

コメント

誰かを賞賛する/批判することが自分の価値観の表明となるのは当たり前のことで、価値観の合わない人が一方に必ず存在するのもまた当然ですよね。それは価値観が違うというだけでその人自身を否定するわけでも、傷つけているわけでもないと思います。別の価値軸ではまた違った結果になるかもしれないわけですし。
褒めることも批判することも躊躇う人は、細かい配慮があるのかもしれないけど、ある意味、誰にも嫌われたくないのかなと思ってしまいます。
特定の誰かを褒め/貶してなくても、書くこと自体の中に価値観は現れるものだから、不特定多数に読まれるものを書いて発表している以上、誰にも嫌われない言説なんてないと思った方がいいような気がします。

投稿 大野 | 2007年6月 7日 (木) 20時20分

>大野さん
その通りですね。ただ、「褒め」もまた暴力だということはせめて自覚しておかないと、無駄に他人を傷つけることになるだろうなと、今回の「暴力の自覚」で再認識しました。
例の褒めコミュ騒動のときも、「褒め」は無条件で肯定される「善い」ものだと信じているっぽい人が散見されたので、そういう人にはちょっとこの辺のことも考えてみて欲しいなと。
考えてみると、僕は「自分のことを嫌っている連中」も確かに嫌いなんですが、「自分が嫌いな価値観を褒めている連中」も、同じかむしろそれ以上に嫌いなんですよね。宗教戦争があれ程酷くなるのも、このへんの心理が絡んでるんじゃないかなと、そんなことをふと考えました。

投稿 Masao | 2007年6月 7日 (木) 20時37分

レスどうもです。
誰かを褒める時、そこに、対極にいる者への「差別・抑圧」を暗に読み取ることができれば、それは該当者を傷つけるでしょう。
「暴力性」が出てくるのは、褒めている対象の対極にある人が、明らかに弱者の場合だと思います。貧乏人をいくら「欲がなくて素晴らしい」と褒めても、それは金持ちへの暴力的言辞とはならないように思います。
「誰が誰をどういう理由で」褒めているかということなんでしょうね。

Masaoさんがブクマコメで悩まれたのは、増田の人が男性を性的に暴力的な存在と看做している女性であり、自ら「弱者」の立場に立っているので、彼女と反対の意見への賛同が、結果として増田さん(弱者)への「暴力」となりかねない、ということがあるからではないでしょうか。‥‥などと思いました。

投稿 大野 | 2007年6月 7日 (木) 21時24分

>増田さんが弱者だったから
あぁ、それはまさに、です。増田さんが「弱者」として振舞っていたから、僕は罪悪感を感じたわけです。記事を書いた時点ではほとんど意識していませんでしたけど、言われてみれば確かにそうでした。
しかしそう考えると、「弱者」の眼の前で「強者」を褒めることは、なかなかデリケートな問題になってきそうですね。そのことが、弱者をますます追い詰める結果になりかねないわけですから……
見方を変えると、ここらへんを理由に「弱者には「気を遣わなくてはいけないから」といって敬遠されてしまう、なんていうこともありそうです。まぁこのへんを逆手にとって「武器」に使う、したたかな「弱者」さんもいるんでしょうけどね。

投稿 Masao | 2007年6月 7日 (木) 21時52分

そういえば、「差別」されても屁とも感じないような「強者」に対する差別は、「差別」とは呼ばないという差別定義を、以前macskaさんが書いていたのを思い出しました(たぶんもう読んでおられるんだろうとは思いますけど)。今回の話も、これに近いものがあるかも知れませんね。
http://macska.org/article/183

投稿 Masao | 2007年6月 7日 (木) 22時11分

というか暴力とか差別がほんとうに一律な「よくないもの」なのか、とゆーのも考えなきゃいけない気が。「相手を自分の価値観の物差しによって評価付け」ても、「それを相手にハッキリ伝え」てさえいなければ問題はどこにもない、なんてわけでもないんでしょうからね。

投稿 - | 2007年6月 9日 (土) 14時12分

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