« 2007年6月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月20日 (土)

「人間」とは両想いが可能だけれど、「趣味」には片想いしかできないという決定的な違い

【渋谷カレーオフで、リアル揉め事発生!?】
よっぱらい研究所@はてな - antihop - 渋谷 DERORI
Twitterでナンパされて会ってきた - CROOK

↑でオフレポが上がってきている、はてなカレーオフに参加。僕的には、「いつもの人」化しているクリルタイ周辺とは一味違った面々と、新鮮な感覚で楽しむことができた。

他の方のオフレポでも触れられてるように、僕は花見川さんとガチンコ議論。テーマは「キミ等、脱オタしてまでモテようとする必要はあんの?問題」。花見川さんが脱オタ否定派、僕が「そりゃあやらずに済むならそれに越したことはないけどしょうがないのよ」という消極的肯定派で、この日の渋谷DERORI は、ハンドアックス飛び交うガンダムばりの激しい空中戦の戦場に。

  • [ハナミ・レイ]
    人間は、自分が信じる道を進めばいつかは認められるんだ!「モテ」なんかのために望まない道を選択する脱オタなど、認めない!(ドギューン!!)*1
  • [マサオ・アズナブル]
    聞いたようなことを言う…世間は、オタクたちのエゴ全部を飲み込めやしない。(バッシャァァァァ!)*2
  • [ハナミ・レイ]
    オタクたちの知恵は、一般人との文化の違いだって乗り越えられる!(ブオォォォン!)*3
  • [マサオ・アズナブル]
    ならば今すぐリア充どもにオタク文化の価値を認めさせてみせろ!(ドガシュゥゥゥン!バリバリバリバリィッ!!)*4
(↑元ネタ:逆襲のシャア

ネット社会では大人気の揉め事も、リアルでやるとドン引きらしく、すぐ隣にいたへぼめがねさんはビビりまくり、到着したばかりのlegnumさんのほうへと逃げて行ってしまった。ごめん。でもnarukamiさんは面白そうに話を聞いてて、女性は強いなぁ、とか思った。

議論のほうは最終的に、「脱オタはモテることが目的ではなく、コミュニケーションの幅と、自分の世界を拡げることが目的なんですよ」ということを共有する方向へ。最後は「なかなかやるじゃねぇか」「お前もな」と、川原で夕日を見ながらガッチリ握手でお互いの友情を確認し合って終了。めでたし、めでたし\(^o^)/


【承認欲求を満たしてくれるのは人間だけ】
帰りの電車が花見川さんと一緒だったので、議論の続きで「自分が価値を感じていること(今回の場合はオタク趣味)が他の人間からは認められない辛さ」みたいなことを話してたんだけど、そこで花見川さんが興味深い一言を。

「でも僕だったら彼女がいたとして、それが凄いブサイクで周りの友達みんなから笑われても、自分が満足できてればそれで良いと思いますよ」

ほう、と。僕はそれまで、「彼女」と「趣味」を同列に考えたことがなかったので、花見川さんのこの考え方は新鮮で、驚いた。確かに「彼女」だったら僕も花見川さんと同じように感じる。これは考えたことのないテーマだったので、しばらく考えた後で、こんな感じのことを返した。

「『彼女』は人間だから、愛し返してくれるじゃない?でも『趣味』は自分から愛すことはできても、愛し返してはくれないのよ。非モテ話ではよく『承認欲求』の話が出てくるけど、『承認欲求』を満たしてくれるのは人間だけ。そこが『人間』と『そうじゃないもの』との違いじゃないかなぁ。『承認欲求』が満たされていないから、非モテは『人間』を求めるのよ」

簡単に言えば、「趣味」相手には片想いしかできないけど、「人間」とは両想いになれる可能性があるってこと。それが、「人間」と「そうじゃないもの」との決定的な違いだってこと。「彼女」は「趣味」と違い、向こうの方からこちらの「承認欲求」を満たしてくれる。だから、他の人に認められなくても平気でいられる。

花見川さんと別れてから、なんで花見川さんは「趣味」と「彼女」を同列に考えることができて、僕は考えたこともなかったんだろうと考えてみたんだけど、これは花見川さんにとって「承認」は空気のように当たり前に得られるものなので、両者の違いを意識したことがなかったってことなのかも知れないな、と思った。


【『ありのままの自分』のままで承認されるという感覚】
↑に書いたように、人間は「愛し合う」ことができる点が、趣味とは違う。でも、人間を相手にすることには「愛したのに、嫌われる」というリスクも同時に付きまとう。これも、人間特有の要素。趣味はこちらが一方的に選ぶものだけど、人間は向こうからも「選んでくる」。

人間にとって、友人や彼女は一緒に居るだけで「承認欲求」を満たしてくれるものなんだけど、これは相手が自分のことを「選んでくれた」という感覚を感じるからなんだよね。

で、様々な理由で友人や彼女に恵まれず、承認不足に陥ってしまった人にとって「友人や彼女」や、それを通じた承認っていうのは、気がつけばそこにある空気のように自然なものではなく、「勝ち取る」ものになる。「ありのままの自分」では、周囲の人間に選んでもらえないという感覚が、これまでの人生経験を通して身についているから*5

これに対して花見川さんは「人間は、自分の信じる道を進めばいつかは認められるんだ」と言う。これは、花見川さんが自分の人生を通じて得た感覚なんだろうと思う。

でも僕のように「ありのままの自分」を通した結果承認不足に悩み、脱オタすることによって初めて承認欲求を満たすことができたような人間には、残念ながら花見川さんの言葉は届かない。それどころか、妬ましさすら沸いてくる。非モテ界隈で大人気の、↓の文章のように*6

はてなブックマーク - 今月の放言 本谷有希子
「自分を受け入れてもらえる環境で育ったんだろうなあ」って。拒否される怖さを知らない人間をみると、憎しみが沸いてくるんですよ(笑)


そして僕は、人類への絶望とルサンチマンの権化マサオ・アズナブルと化し、叫ぶわけだ。「ならば今すぐリア充どもにオタク文化の価値を認めさせてみせろ!」と。そうすれば僕は「ありのままの自分」のままで、他者からの承認を好きなだけ得ることができるのだから。


【余談】
ちなみに精神分析や心理学の分野では、こうした「ありのままの自分が認められる」感覚を空気のように自然な感覚として感じることができるようになれるか否かは、幼少期の両親との関係が大きく関係していると考えられているとか。

花見川さんのブログでは、花見川さんが両親を尊敬してるんだということがよく分かる文章をときどき見るんだけど(これとか)、花見川さんの今日書いたような感覚には、このへんがあるのしてるのかも知れないなと、勝手に想像しています。

花見川さんだってこれまでの人生の内で人間関係の様々なトラブルで「ありのままの自分」が承認されないということもたくさんあったんじゃないかと思うんだけど、それでも「人間は、自分の信じる道を進めばいつかは認められるんだ」と感じることができる根拠には、こういう親との関係が大きく影響しているのかもな、と。

このエントリーを含むはてなブックマーク


*1 ビームライフルを発射したSE。

*2 IフィールドでビームライフルをはじいたSE。

*3 ビームサーベルを抜いたSE。

*4 ビームサーベルがぶつかり合って、なんか稲妻とか出ちゃってる感じのSE。

*5 ちなみにこの「ありのままの自分では他人に相手にされない」という感覚をあまりにも強く内面化してしまうと境界性人格障害(『エヴァ』のアスカみたいなヤツ)などの症状が発症してしまうらしい。

*6 原文がバックナンバー化で会員制になってしまっていたので、URLはブクマ。こちらの本谷有希子さんの回が原文。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2007年10月 7日 (日)

異文化コミュニケーションは、労多く実り少ない ~ 社会規範の内面化と個人の幸せに関する考察

【『異文化コミュニケーションをするべきだ』という脅迫概念】

・別に誠実に対話したからと言って分かり合えるわけじゃないんだよね
http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20071005/p1
悲しいかな。努力はすべきだと思うし、過程が無駄だとは思えないけれど、その人間性において立脚すべき点があまりに違うと、表面上の納得は可能かも知れないけれど、心底分かり合うってのは難しいと思う。

同感。

しかしこの事実から眼を背けるかのように、「異文化コミュニケーション」を素晴らしいものとして賞賛、推奨する世間の声は大きい。

そして実際、10代の頃の僕は、「価値観やノリが異なる者だからといって、他人を排除するのはよくない」「いろいろな価値観やノリの持ち主と付き合えるようにならなくてはならない」と強く考えていた。

スクールカースト的な同属で固まる学校のコミュニティを強く嫌悪し、それに対抗したくて全てのクラスメイトと同じように接する努力もしていた。中学生のときの通知表には、「すべての友人と同じように接するので、周囲の人間から信頼されている」と書かれ、嬉しかったことを覚えている。

しかし実際のところ、僕はクラスに心から「友人」だと思えるような相手は存在していなかった。「価値観やノリが異なる相手とも同じ相手とも平等に接する」ことは、「価値観やノリが似た相手との深い繋がりを持つ」ことを難しくするからだ。

id:p_shirokumaさんは、「脱オタとは、自分と異なった価値観を持つ集団ともコミュニケーション可能にし、自分の世界を広げることだ」と言う。「脱オタクファッションガイド」の久世氏も同じことを言っていた。僕が脱オタをした背景にも、この思想が僕が昔から考えていた「いろいろな価値観の持ち主と付き合えるようにならなくてはならない」と合致したからということが、一因としてある。


【異文化コミュニケーションは、労多く実り少ない】
しかし最近の僕の考えは、これとは180度違う。僕が最近思うことは、「価値観やノリがあまりにも異なる相手とのコミュニケーションは、双方にたいした実りをもたらさない」ということだ。異文化コミュニケーションは、労多く、実り少ない。これが、脱オタ等を通じて「異文化コミュニケーション」に挑戦した僕の、偽らざる実感だ。

ファッションやクラブ通いを通じて得た友人には、僕とはノリが合わない人間が多かった。頑張ればコミュニケーションを取れないこともなかったけれど、根本のノリの部分で、どうしてもソリが合わないと感じられた。

そうしたコミュニケーションには、常に「無理してる感じ」が付きまとった。それは楽しいものではなく、苦痛を感じることのほうが多かった。そのコミュニケーションから得られたものは、少なかった。

しかし世の中には、僕とノリが近い人間もいる。そういった人間とのコミュニケーションは、素直に楽しい。素直な自分を出せる気がする。そうしたコミュニケーションは、とても意味があることのように僕には感じられる。僕がブログをやっていて最も良かったと思うことは、こうした「ノリが近いと感じられる人間」にたくさん出会えたことだ。


【社会の規範と個人の幸せ】
結局のところ、「異文化コミュニケーションが必要だ」という言説は、「社会」を中心に物事を考えて出てきた発想なのではないだろうか。価値観の多様化が進み、少数のマイノリティ同士が閉じたコミュニティで固まる「島宇宙化」が進めば、社会にとっては都合が悪いことが多いだろう。

たとえば音楽業界。いま、日本人の音楽嗜好は多様化が進み、かつてのようなメガヒットはほとんど生まれなくなっている。こうした状況では、音楽業界的にはターゲットユーザーを絞り込むことが難しくなり、1つの商品当たりの売り上げも落ちる。これは、商売する側にとっては都合が悪いことだろう*1

ビジネスに限らずとも、「異文化」に所属する人間同士が対立ばかりしていては、社会は上手く回らないだろうということは容易に想像がつく。そうした事態を避けるために、「異文化コミュニケーションは素晴らしいものだ」という価値観が、建前的に社会に存在するのではないだろうか。そういった意味で、この価値観は「道徳」や「良心」といった概念に近いものなのかも知れない。

・レジデント初期研修用資料: 良心なんて最初から無かったhttp://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2007/10/post_550.html
たぶん最初から、良心とか奉仕の心、感謝の心も存在しなかった。

それを仮定したほうが社会コストが少ない状況があって、技術が進歩して、今はそれがなくても大丈夫になって、良心は姿を消した。

しかし、社会的にそれが必要だからといって、それを真に受けて実行することが個人の幸せに繋がるとは必ずしも限らない。結局のところ、人間はノリが同じ人間と一緒にいるほうが楽しく、幸せを感じるものなのだ。

インターネットは、当初異文化コミュニケーションを活性化させるツールになると期待されていたが、現実には同属との出会いを広げる島宇宙化促進ツール的な方向に発展していった。しかしこれもシステムの特性というよりは、人々がインターネットをそう使いたいと希望し、その想いが反映されたというのが実際のところなのではないだろうか。

そして個人の幸せを中心に考えた場合、コミュニケーションの「島宇宙化」は決して悪いことではないと僕は思う。


【誰が為の社会規範か】
ここまで散々、「社会規範を守ることは、個人の幸せには必ずしも結びつかない」と書いてきた。しかし実際のところ、「社会」と「個人の幸せ」は、無関係ではない。社会を維持することは、個人の幸せにとっても重要だ。「規範」は、個人の勝手に任せていては社会が維持できなくなるような部分をなんとかやりくりするために、「正しいこと」として存在する。

しかし、「社会の維持」を追求するあまり規範の建前を頑なに信じ込み、そのために自分の幸せが犠牲になるようでは本末転倒というものだろう*2。人々は社会を維持するために生きているのではなく、自分の人生を生きているのだから。そして社会は、そのための道具に過ぎないのだから。

たぶん、あなたはもっと自己中心的に振舞っていいのだ。僕たちには、なにもそこまでして「社会」に付き合ってやる義理はない。

このエントリーを含むはてなブックマーク


*1 20代前半、ゲーム業界に入った頃盛んに言われていたことに「ライトユーザーの獲得」があった。商売的に見れば、それは正しいことだろう。しかし、「個人の幸せ」を中心に考えたとき、それは果たして本当に正しいことなのだろうか。少なくとも僕個人にとっては、FFやドラクエや脳トレが何100万本売れることよりも、CAVEやライジングのSTG作品がもっとたくさん家庭用に完全移植されてくれたほうが、余程「幸せ」になることができる。

*2 「非モテ」の人達には、この規範の内面化が進みすぎ、「自分の幸せ」が犠牲になってしまっている人が多いような印象を僕は受ける。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2007年6月 | トップページ | 2007年11月 »