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2007年10月 7日 (日)

異文化コミュニケーションは、労多く実り少ない ~ 社会規範の内面化と個人の幸せに関する考察

【『異文化コミュニケーションをするべきだ』という脅迫概念】

・別に誠実に対話したからと言って分かり合えるわけじゃないんだよね
http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20071005/p1
悲しいかな。努力はすべきだと思うし、過程が無駄だとは思えないけれど、その人間性において立脚すべき点があまりに違うと、表面上の納得は可能かも知れないけれど、心底分かり合うってのは難しいと思う。

同感。

しかしこの事実から眼を背けるかのように、「異文化コミュニケーション」を素晴らしいものとして賞賛、推奨する世間の声は大きい。

そして実際、10代の頃の僕は、「価値観やノリが異なる者だからといって、他人を排除するのはよくない」「いろいろな価値観やノリの持ち主と付き合えるようにならなくてはならない」と強く考えていた。

スクールカースト的な同属で固まる学校のコミュニティを強く嫌悪し、それに対抗したくて全てのクラスメイトと同じように接する努力もしていた。中学生のときの通知表には、「すべての友人と同じように接するので、周囲の人間から信頼されている」と書かれ、嬉しかったことを覚えている。

しかし実際のところ、僕はクラスに心から「友人」だと思えるような相手は存在していなかった。「価値観やノリが異なる相手とも同じ相手とも平等に接する」ことは、「価値観やノリが似た相手との深い繋がりを持つ」ことを難しくするからだ。

id:p_shirokumaさんは、「脱オタとは、自分と異なった価値観を持つ集団ともコミュニケーション可能にし、自分の世界を広げることだ」と言う。「脱オタクファッションガイド」の久世氏も同じことを言っていた。僕が脱オタをした背景にも、この思想が僕が昔から考えていた「いろいろな価値観の持ち主と付き合えるようにならなくてはならない」と合致したからということが、一因としてある。


【異文化コミュニケーションは、労多く実り少ない】
しかし最近の僕の考えは、これとは180度違う。僕が最近思うことは、「価値観やノリがあまりにも異なる相手とのコミュニケーションは、双方にたいした実りをもたらさない」ということだ。異文化コミュニケーションは、労多く、実り少ない。これが、脱オタ等を通じて「異文化コミュニケーション」に挑戦した僕の、偽らざる実感だ。

ファッションやクラブ通いを通じて得た友人には、僕とはノリが合わない人間が多かった。頑張ればコミュニケーションを取れないこともなかったけれど、根本のノリの部分で、どうしてもソリが合わないと感じられた。

そうしたコミュニケーションには、常に「無理してる感じ」が付きまとった。それは楽しいものではなく、苦痛を感じることのほうが多かった。そのコミュニケーションから得られたものは、少なかった。

しかし世の中には、僕とノリが近い人間もいる。そういった人間とのコミュニケーションは、素直に楽しい。素直な自分を出せる気がする。そうしたコミュニケーションは、とても意味があることのように僕には感じられる。僕がブログをやっていて最も良かったと思うことは、こうした「ノリが近いと感じられる人間」にたくさん出会えたことだ。


【社会の規範と個人の幸せ】
結局のところ、「異文化コミュニケーションが必要だ」という言説は、「社会」を中心に物事を考えて出てきた発想なのではないだろうか。価値観の多様化が進み、少数のマイノリティ同士が閉じたコミュニティで固まる「島宇宙化」が進めば、社会にとっては都合が悪いことが多いだろう。

たとえば音楽業界。いま、日本人の音楽嗜好は多様化が進み、かつてのようなメガヒットはほとんど生まれなくなっている。こうした状況では、音楽業界的にはターゲットユーザーを絞り込むことが難しくなり、1つの商品当たりの売り上げも落ちる。これは、商売する側にとっては都合が悪いことだろう*1

ビジネスに限らずとも、「異文化」に所属する人間同士が対立ばかりしていては、社会は上手く回らないだろうということは容易に想像がつく。そうした事態を避けるために、「異文化コミュニケーションは素晴らしいものだ」という価値観が、建前的に社会に存在するのではないだろうか。そういった意味で、この価値観は「道徳」や「良心」といった概念に近いものなのかも知れない。

・レジデント初期研修用資料: 良心なんて最初から無かったhttp://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2007/10/post_550.html
たぶん最初から、良心とか奉仕の心、感謝の心も存在しなかった。

それを仮定したほうが社会コストが少ない状況があって、技術が進歩して、今はそれがなくても大丈夫になって、良心は姿を消した。

しかし、社会的にそれが必要だからといって、それを真に受けて実行することが個人の幸せに繋がるとは必ずしも限らない。結局のところ、人間はノリが同じ人間と一緒にいるほうが楽しく、幸せを感じるものなのだ。

インターネットは、当初異文化コミュニケーションを活性化させるツールになると期待されていたが、現実には同属との出会いを広げる島宇宙化促進ツール的な方向に発展していった。しかしこれもシステムの特性というよりは、人々がインターネットをそう使いたいと希望し、その想いが反映されたというのが実際のところなのではないだろうか。

そして個人の幸せを中心に考えた場合、コミュニケーションの「島宇宙化」は決して悪いことではないと僕は思う。


【誰が為の社会規範か】
ここまで散々、「社会規範を守ることは、個人の幸せには必ずしも結びつかない」と書いてきた。しかし実際のところ、「社会」と「個人の幸せ」は、無関係ではない。社会を維持することは、個人の幸せにとっても重要だ。「規範」は、個人の勝手に任せていては社会が維持できなくなるような部分をなんとかやりくりするために、「正しいこと」として存在する。

しかし、「社会の維持」を追求するあまり規範の建前を頑なに信じ込み、そのために自分の幸せが犠牲になるようでは本末転倒というものだろう*2。人々は社会を維持するために生きているのではなく、自分の人生を生きているのだから。そして社会は、そのための道具に過ぎないのだから。

たぶん、あなたはもっと自己中心的に振舞っていいのだ。僕たちには、なにもそこまでして「社会」に付き合ってやる義理はない。

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*1 20代前半、ゲーム業界に入った頃盛んに言われていたことに「ライトユーザーの獲得」があった。商売的に見れば、それは正しいことだろう。しかし、「個人の幸せ」を中心に考えたとき、それは果たして本当に正しいことなのだろうか。少なくとも僕個人にとっては、FFやドラクエや脳トレが何100万本売れることよりも、CAVEやライジングのSTG作品がもっとたくさん家庭用に完全移植されてくれたほうが、余程「幸せ」になることができる。

*2 「非モテ」の人達には、この規範の内面化が進みすぎ、「自分の幸せ」が犠牲になってしまっている人が多いような印象を僕は受ける。

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純粋なココロ 2.0: 異文化コミュニケーションは、労多く実り少ない 〜 社会規範の内面化と個人の幸せに関する考察 この記事の視点がとても面白かったので、ぼくもそれを土台に異文化コミュニケーションについての考え方を整理したいと思った。 ”異文化”という言葉について ... [続きを読む]

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