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2008年2月28日 (木)

コミュニケーションを重ねれば重ねるほどに、「寂しさ」は増幅する ~ ラカン初心者による、にわか仕込みのコミュニケーション「欲望」論

生き延びるためのラカン (木星叢書)
作者: 斎藤 環
メーカー/出版社: バジリコ
発売日: 2006-11
メディア: Book

【ラカン、はじめました】
・空中キャンプ - 「ラカンはこう読め!」/スラヴォイ・ジジェク

以前、「空中キャンプ」のzoot32さんが↑の記事で「ラカンはこう読め!」のサブテキストとしてお勧めしていた「生き延びるためのラカン」を読んでいる*1。まだ途中までしか読んでいないんだけど、凄く面白い。

この本に書いてあることを使うと、この前はてなで書いた「『寂しいことの苦しさ』が、よくわからない」が上手いこと説明できそうだったので、にわか仕込みのラカンを使って、この記事を掘り下げてみるテスト。


【「欲望は他人の欲望である」(ジャック・ラカン)】

・世界のはて - 「寂しいことの苦しさ」が、よくわからない
孤独は、好きだ。周囲に他者さえ居なければ、孤独自体に苦痛を感じたことはこれまでの人生で全く無かったし、これからの人生でもたぶん無いのだろうと思う。

↑の記事で僕は、「孤独がつらいのは、周囲に比較対象となる『他者』がいるからであって、『他者』さえいなければ、孤独自体に苦痛を感じることはない」と書いた。これ、「生き延びるためのラカン」にはこうある。

ラカンの言った言葉でいちばんよく引用されるのが「欲望は他人の欲望である」というものだろう。そう、ラカンは欲望が僕たちの内面にあらかじめ備わっているわけじゃなく、常に他人から与えられるものだ、ということを強調したんだ。<中略>完全な孤独にあっては、欲望は生じない。みんなが欲望を持っていると信じられるから、僕も欲望を持つことができるのだ。

「生き延びるためのラカン」 P.20

えーと、そのまんまなんですけど(笑)。つまり個人に「コミュニケーションを取りたい」という欲望が発生するのは、周囲の人間がコミュニケーションを欲望しているからであって、完全に孤独な状況では、コミュニケーションへの欲望自体が発生しない。

そういえば昔、僕と彼女がレストランで食事をしていたとき、特に話すこともなくなって、ふたりとも黙ったまま数分間が過ぎるという事があったんだけど、このとき彼女は急に不機嫌になって、「Masaoはなんで黙ってるんだ!」と怒り始めた。理由を聞いてみれば、「他の客は楽しそうに会話しながら食事してるのに、うちらだけ黙ってる。仲悪いカップルみたいで嫌」とのこと。

でも、うちらはもう何年も付き合い続けているカップルだから、お互いが黙り合うというシチュエーションは、そんなに珍しいものでもなかったんだよね。

にも関わらず、このときに限って彼女が怒り出したのは、やっぱり「他の客は楽しそうに会話しながら食事してるのに」という部分が大きかったんだろう。ラカンっぽく言えば、「周囲の人間のコミュニケーションへの欲望を、彼女自身も欲望した」*2。それが満たされなかったから、彼女は不機嫌になった。

クリスマスやバレンタインの時期に、ことさら非モテが劣等感や寂しさを刺激されるのも、この「欲望は他人の欲望である」が原因なんだろう。

で、周囲の人間がみんな欲望を満たしていると感じられる状況下では、自分だけ欲望を満たせていないという惨めさが「劣等感」として感じられるということなんじゃないだろうか。これは、コミュニケーションへの欲望に限らず、世の中のあらゆる欲望に当てはまることなんじゃないかと僕は思う。

・世界のはて - 本当に学歴のない人間は、学歴コンプレックスなんか抱かない
コンプレックスは、「ソレが価値を持つ場所で、ソレを持っていない」という状況下で初めて喚起されるものなので、学歴が必要ない場所では、学歴を持っていないことはコンプレックスになり得ない。コレはべつに「学歴」に限った話ではなくて、「コミュニケーション能力」や「おカネ」や「社会的地位」でも同じ話です。


【動物は「本能」と「欲求」に突き動かされ、本能の欠如した人間は「言葉」から産み出された「欲望」に従う】
コミュニケーション不全から喚起される「劣等感」の正体について考察したところで、次は「寂しさ」について。この本では、動物が持つ「欲求」と人間が持つ「欲望」を分けて考えている。そして「欲望」は人間だけが持つ「言葉」を介して産み出されるのだという。

言葉を使うことによって、人間は「欲望」を手に入れた。動物は「本能」と「欲求」に突き動かされ、本能の欠如した人間は「欲望」に従う。<中略>人間は動物とはちがう。だいたい人間は、教わらなければなにもできない。言い換えるなら、あらゆる行動を、それこそケンカやセックスに至るまで、後天的に、学習によって習得する必要があるのだ。そして人間の学習は、そのほとんどが言葉の助けを借りて行われる。「欲望」も言葉に根ざした学習の産物なんだ。

「生き延びるためのラカン」 P.16 ~ P.17

で、動物の「欲求」は満足させることができるけれど、人間の「欲望」は満足することがないのだそうだ。なぜなら、「言葉」は実体を伴わない空虚な「記号」であり、その「言葉」から産み出された「欲望」もまた、実体を伴わない本質的な空虚さに満ちているから。「欲望」を満たそうといくらあがいてみたところで、いや、むしろあがけばあがくほどに、「欲望」の空虚さは増幅される。

たとえば人間の男は、オナニーで一時的に性欲が満たされた感覚を感じることができるけど、その後には空虚さが襲ってくる。そして、すぐにまた性欲は戻ってくる。完全に性欲が満たされることは、決してない。この空虚さは、「欲望」が本質的に持つ空虚さに由来する*3

僕の考えでは、この空虚感こそが、欲望本来の空虚感なんだ。射精によって欲望の生理的側面が満たされたかに錯覚するわずかな期間だけ、オトコたちは性欲の本質的な虚しさを、ほんの少しかいま見ているってわけだ。

「生き延びるためのラカン」 P.18


【「欲望」が全く得られない「劣等感」と、「欲望」が決して満たされない「寂しさ」】
ここでふと思ったのは、もしかしたら「寂しさ」という感情もまた、決して満たされることのない「欲望」から発生する感情なんじゃないかってこと。「コミュニケーションへの欲望」が満たされたと錯覚したあと、それが実は幻想だったと気付いたとき、人間は初めて「寂しさ」を感じるんじゃないだろうか。ちょうど、オナニーによって性欲が満たされたと錯覚した後で、初めて人間は空虚さを感じるように*4

もしそうだとすると、「寂しさ」という感情は、ある程度のコミュニケーションを他者と築いた後にしか感じられない感情だということになる。僕がコミュニケーション不全に対して「劣等感」を感じることはあっても「寂しさ」を感じることが全くないのは、「寂しさ」を感じるほどのコミュニケーションの蓄積がないからじゃないだろうか。

そんなことを考えていたら、タイムリーにはてぶでid:REVさんから↓のようなコメントをいただいた。

・はてなブックマーク - xito.jp - 寂しさはどこから来るのか
REV 『そのへん、無いもの、背中の羽はなくても困らないが、あるものが無くなると痛い。欲求というより切断不安と考えると便利かなと思っている。もしくは理想像との乖離。』
Masao_hate 『↑あぁ、なんとなく分かりました。「寂しさ」は「喪失」から来るもので、「劣等感」は「欲望」から来るものなのかな、と。だから持たざる者は、劣等感を感じることはあっても寂しさを感じることはない。』

↑で僕が言いたいのは、こういうこと。

まずコミュニケーションへの欲望が、他者が持つ「友人」「彼女」といったものにより喚起される。この欲望が達成できないとき、人は「自分だけは得ていない」ことに対して劣等感を感じる。

でも、コミュニケーションへの欲望は決して満たされることがない。友人や恋人とのコミュニケーションを通せばこの欲望は満たされたように一瞬錯覚されるが、これは欲望が本質的に抱える「空虚な満足」であり、一瞬の満足の後には寂しさが襲ってくる。さらに、友人や恋人との別れ等の経験すれは「喪失の痛み」としてさらなる寂しさを誘発させる。

だから、コミュニケーションを全く取らない、あるいは取ることができない人間は、「劣等感」を感じることはあっても「寂しさ」を感じることはない。僕がこの本を読んだにわかラカンの知識を使えば、僕が書いた「『寂しいことの苦しさ』が、よくわからない」の内容はこんな解釈になると思う。


【なんていうか、大変ですよね】
……と、ここまで「『欲望』は決して満たされることがない」ということから「劣等感」や「寂しさ」について考えてきたけど、こうやって考えていくと、他者の存在が前提となって生きている現代人は、ずいぶん大変な状況に立たされている気がしてくる。

だって現代人は、生きているだけで他者と接触することで決して満たされることの無い欲望を植え付けられ、欲望が全く満たされなければ劣等感を味わい、たとえ欲望がある程度満たされたとしても今度は空虚さに襲われるという、どこにも逃げ場がない悲劇的な状況にいるってことになるわけだから。ホント、人間の欲望は地獄だぜ!

……と悲観的なことを書いてみたけど、欲望が永遠に満たされないからこそ、人間はいつまでもモチベーションを維持することがでるという側面もある。資本主義は人間のこの習性をエンジンとして上手く利用して回しているシステムなわけで、「決して満たされることにない欲望」ってヤツも、モノは使いようということなのかも。

まぁそうしたものをエンジンとして動く社会というものは、ずいぶん脅迫的なものになりそうな気はしますけどね。

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*1 zoot32さんによる「生き延びるためのラカン」本体のレビューはこちら。「ラカンはこう読め!」も近々読んでみるつもり。

*2 「他者の欲望が彼女に転移した」という言い方が分かりやすいかも。

*3 人間の「性欲」は「欲求」に入りそうな感じがするけれど、これも「欲望」に分類されるらしい。理由は、万年発情期の人間の性欲には限りが無く、決して満足することがないから。これに対し、発情期を持つ動物たちは、発情期以外の期間には性欲自体が発生しない(=満足している)。これが動物の「欲求」と人間が独自に持つ「欲望」の違いらしい。でもそうすると、「食欲」なんかは動物も人間も関係なく「欲望」に分類されるんだろうかっていう話になる気もするけど、ここら辺どうなんだろうか。

*4 ……と書くと、コミュニケーションの「寂しさ」はオナニーの後の「寂しさ」と根は同じって話になって、いやんな感じだ。

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2008年2月 7日 (木)

スクールカーストは、現代社会に浸透した「人格崇拝」と、そこから必然的に発生した「予防的やさしさ」が根っこになっていたんだよ!

ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書 74)
作者: 森真一
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日: 2008/01
メディア: 新書

【この本は、凄すぎる】
・こどものもうそうblog - 「適応」と『ほんとはこわい「やさしさ社会」

↑で、あまりにも面白そうに紹介されていたので読んでみた。
……[これはすごい]。ホントにメチャクチャ面白かった。ブログで紹介してくださっていた、米光一成氏に感謝。

著者の森真一氏は社会学が専攻だそうで、たぶん理論のベースは社会学なんだろうけど、身近な例を出し、学問的なことを一切意識しないで読める工夫がされている。とても読みやすくて分かりやすい。文章量も程ほどで、もの凄い遅読の僕でも半日で一気に読み終えることができた。これは是非とも、いろんな人に読んで欲しい一冊。


【『イエ崇拝』から『人格崇拝』へ】
この本によると、明治時代頃までの日本人は「イエ」を「聖なるもの」と考え、コレを守るために生きてきた。ところがその後の近代化によって「イエ」が解体。換わって戦時中は「国」が、戦後の高度経済成長期は「企業」が、守るべき「聖なるもの」として君臨。日本人は、自分よりもこれらを優先し、自我を抑えて生きてきた。

しかし不況期に入り、リストラ等企業の「裏切り」によって企業の「聖性」も解体。後に残ったのは個人の人格だけ。こうして現代社会は自分の他に守るべきものもなく、「(自分も含めた)個々人の人格」を「絶対不可侵な聖なるもの」として崇める社会になっているという(人格崇拝)。

その結果どういうことが起こっているかというと、個人間の過剰なお互いの尊重。個人個人が「絶対不可侵な聖なるもの」だから、「他人を傷つけること」は絶対悪とされ、社会的に最も許されない行動となる。


【人格崇拝から必然的に発生する『予防的やさしさ』】
でも、人格にはそれぞれ個性がある。笑いのツボも怒りのツボも、みんな違う。何が相手を喜ばせ、何が相手を怒らせるのか、厳密にいえばやってみなければ分からない。

たとえば電車で老人に席を譲るとき。「身体が弱って苦労しているのを察し、席まで譲ってもらえて嬉しい」という人もいれば、「老人だとバカにするな!」と傷つき、怒り出す人もいる。これは、実際に「席を譲る」という行動を起こしてみるまでは、わからないこと。

「他人を傷つけること」が絶対に許されないこととなった現代、ここで迂闊に老人に席を譲って傷つけることは、「悪いこと」だということになる。それがたとえ善意からの行動だったとしても。その結果、個人がとりうる「相手を傷つけない」ための最善の選択は「席をゆずらない」ことだということになる。それが「やさしさ」だということになる。

立ってあげようかなって思ったけど、最近のお年寄りって元気な人、多いじゃないですか。<中略>このオジイさんも年寄り扱いしたら気を悪くするかなぁ、なんて考えてたらァ、立つのやめた方がいいか、なんて考えてェ、寝たふりしちゃったの。<中略>寝たふりしたのはねぇ、私たちのやさしさ分かんない大人とかが、「この子、席も立たないで」みたいな目つきでジロジロみるからなのよ。
ほんとはこわい「やさしさ社会」 P.48

これが、この本で「予防的やさしさ」という言葉で書かれている現象だ。「予防的やさしさ」の根底には、「相手を傷つけてしまってからではもう遅い。相手を傷つける可能性をすべて未然に取り除き、予防しよう」という潔癖ともとれる思考が流れている。


【対等原則】
現代社会に浸透した「人格崇拝」は、「予防的やさしさ」から派生した、様々な現象を引き起こす。

そのひとつが、「対等原則」。個々人が「聖なるもの」であり崇拝の対象である現代、個人間に「上下関係」を持ち込むことは悪とされる。特に友人関係のように、社会的にも「対等」とされている関係ではなおさらだ。

でも、個人が完全に対等であることは、実際のところありえない。頭のよさ、美醜、才能、全てが違う。

でも、現代人には「個人間は対等」であり、かつ「絶対に相手を傷つけてはならない」という命題が与えられている。この命題を過剰に守ろうとした場合、個人の「才能」は、相手に劣等感を与え、傷つける要因になりかねない危険なものとなる。また、才能を持った優越感を感じる側も、「本来対等であるハズの友人に劣等感を与えてしまい、申し訳ない」と、心苦しい気持ちをもつようになる。

その結果、こんな女子高生が登場してくる。

その高校生は、友人とプリクラを撮るとき、わざと顔をゆがめて「ブス」に写るようにするそうです。友人が周囲のひとにプリクラをみせるとき、傷つくことがないように考えてそうするのだ、とテレビでは話していたそうです。
ほんとはこわい「やさしさ社会」 P.27

よくわからない行動だと思うかも知れないけど、たとえばこの女子高生(A)と一緒にプリクラを撮った友人(B)が、第3者(C)にこのプリクラを見せたときのことを考えてみよう。

このとき、「このAさんって人、超可愛いね~」などとCに言われたら、Bは「私はAよりブスなんだ」と傷つくかも知れない。コレを未然に防ぐためにAは「予防的やさしさ」を働かせ、わざと自分を「ブス」にしたのだと考えれば、この行動は理解できる。さらにこの行動には、A自身が「Bよりも美人」であることによって感じる「対等ではない」という負い目を防衛しているという面も同時に存在する。

この「対等原則」がどういうことを引き起こすかというと、「同質なグループの構成と、グループ間の断絶」。つまり、お互いがお互いの劣等感を刺激しないように、あるいは優越感を感じさせて気まずい思いをさせないように、同程度の「レベル」(容姿、学力、人気等)の人間で固まるようになる。

お互いが、相手を傷つけないための「予防的やさしさ」から。


【キャラ的人間関係】
「予防的やさしさ」のもうひとつの例が、「キャラ的人間関係」。

電車で老人に席に譲る例のように、「個性を尊重すること」と「相手を傷つけないこと」を完全に両立することは、非常に難しい。というより、不可能。

ただ、そうした状況の中でも、コミュニティの構成員がそれぞれ何らかの「キャラ」を担当し、予定調和的に振舞えば、「絶対不可侵な個性」からくるコミュニケーションの不確実性を軽減させることができる。

「ボケキャラ」、「突っ込みキャラ」、「天然キャラ」、「いじられキャラ」……「キャラ」には、様々な形態があるが、「役を割り振られ、それに応じた振る舞いをコミュニティから期待される」という意味ではどれも変わらない。各人が自分のキャラを好演している限りコミュニティの秩序は保たれ、誰も傷つかない楽園が維持される、というわけ。

でも、この楽園にも欠点はある。人間はいつだって同じような気分を保っていられるわけじゃない。「ボケキャラ」の人だって落ち込むことはあるし、「天然キャラ」だって真面目な話をしたいこともある。でも、「キャラ的人間関係」ではこういった逸脱は許されない。キャラの揺らぎはコミュニティの混乱を招き、「他人を傷つける」という、最悪の結果を呼び寄せかねないから。こうした自分の意思と関係なく「キャラ人格」を要請される人間関係は、とても疲れるものとなる。


「キャラが被る」という問題もある。「キャラ的人間関係」は「対等原則」を守ることにも都合が良い。「キャラ」は、「才能」のように上下のある「縦の関係」ではなく、平等な「横の関係」だとされている(建前上は)。「キャラ」の間に上下関係はなく、「対等原則」は揺るがない。既に「同質グループ」に分かれた後のコミュニティで「キャラ的人間関係」が構築されれば、それはますます磐石なものになる。

でも、「キャラが被る」人間が、グループ内に存在したら……?そこでは同キャラ間の「質」を巡った競争が展開され、縦の関係が構築されることになる。「対等原則」はもう守られない。「神聖不可侵」であるこの私の自尊心が傷つけられてしまう。このため、「キャラ的人間関係」の構成員は、グループメンバの入れ換わり等で「キャラが被る」ことを非常に恐れるようになる(そして、ますますグループの固定化は進んでいく)。


あと、この本ではあまり触れられていないけど、「汚れキャラ」の問題もある。さっき「キャラは横の関係だとされている」と書いたけど、「建前上は」と付け足したように、実際にはキャラ間の扱われ方には格差がある。

「いじられキャラ」は、自分の体調や精神状態に関係なく、芸人でもないのに常にコミュニティからいじられることを要求され、ストレスを溜め込みやすい。最初は「キャラいじり」だったものがいつの間にかエスカレートし、「いじめ」に発展することもあるだろう。*1

こういった危険があるため、「汚れキャラ」に落ちないよう、コミュニティの各構成員は激しいキャラ争奪戦を繰り広げることになる(高校デビュー!)。「キャラ」は、「建前上は」各人が自分の適正に合わせて選択した「自己責任」ということになっているから、一旦「汚れキャラ」に落ちたが最後、後から文句を言っても「自分が好きで選んだキャラなのに、なに言ってんの?」で済まされてしまう。

さらに、「汚れキャラ」本人にも、「コミュニティの秩序を乱してはいけない」という「予防的やさしさ」から来るプレッシャーがかかる。「キャラ換え」するにも罪悪感がのしかかる。また、コミュニティ側も秩序を維持するために「汚れキャラ」を必要としているため、「汚れキャラ」を簡単に手離すようなこともしない。

こうして一旦「汚れキャラ」に落ちたが最後、コミュニティが解散するまで「汚れキャラ」はコミュニティの重力に引かれ、汚れ役を引き受け続けることになる……。*2


【まんまスクールカーストじゃん!】
と、ここまで書いて、僕の文章を昔から読んでる人はすぐに連想すると思うんだけど……コレ、まんまスクールカーストの構図なんですよね。「スクールカースト」という名前が付けられていないだけで。

分からない人は、こちらを参照。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%AF%A1%BC%A5%EB%A5%AB%A1%BC%A5%B9%A5%C8

昔僕が↑で書いたスクールカーストの文脈で言えば、「対等原則」から来るグループ分断はABCのグループ分けだし、「キャラ的人間関係」は「キャラ強制圧力」。何も付け足すことがないくらいにもう、僕が実際に学生時代に体験してきたスクールカーストそのまんま。

その理由を現代社会に浸透した「人格崇拝」やそこから産まれる「予防的やさしさ」に求めるというのはびっくりしたけど、現代社会が「個人の人格」を「絶対不可侵な聖なるもの」とみなしているというのは、確かにそういう感じがする。

ここまでこの本の内容をスクールカーストの観点から要約して書いたけど、実際には各項はもっと密接に絡まりあっているし、省略した部分もたくさんある。

  • 「キャラ的人間関係」が「お笑いの世界」を模したものになっている背景には、「人格崇拝」から来る「自分の人生を最大現に活かさないと損!」という「楽しさ至上主義」がある
  • なぜ「人格崇拝」がここまでの力を持つのかといえば、「公式ルール」(例:道路交通法)と「非公式ルール」(例:空気嫁やマナーのような、暗黙のルール)の強制力の違いがある。非公式ルールのほうが強制力が大きい。*3
  • 人格を「神聖なもの」として他者に扱ってもらうためには、相応の「メッセージ」を発する必要があり、社会もそれを非公式ルールとしてそれを求めている。
  • 現代人は「コミュニケーション能力」やら「他者への想像力」やらが「低下」しているとよく言われるが、実際にはそうした能力への期待がかつてない程にに高まっており、求められる水準が上がったと考えるのが正しい。

などなど。

まぁなんにしろ、スクールカースト周辺に関心を持っている人には、いろんな気付きがある一冊だと思います。超おススメ。

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*1 小説「りはめより100倍恐ろしい」は、「いじられキャラ」へのいじりがエスカレートして「いじめ」に発展する様をリアリティある描写で描いている(参考)。

*2 「汚れキャラ」の問題については、「白田秀彰の「インターネットの法と慣習」 第20回 意思主義とネット人格・キャラ選択時代」に興味深い考察が載っていたんだけど、残念ながら今は読めなくなっている(はてぶ)。

*3 「殺人」なんかは、「公式ルール」でも「非公式ルール」でも禁止されてるから、強制力最強っぽい。

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