2008年2月28日 (木)

コミュニケーションを重ねれば重ねるほどに、「寂しさ」は増幅する ~ ラカン初心者による、にわか仕込みのコミュニケーション「欲望」論

生き延びるためのラカン (木星叢書)
作者: 斎藤 環
メーカー/出版社: バジリコ
発売日: 2006-11
メディア: Book

【ラカン、はじめました】
・空中キャンプ - 「ラカンはこう読め!」/スラヴォイ・ジジェク

以前、「空中キャンプ」のzoot32さんが↑の記事で「ラカンはこう読め!」のサブテキストとしてお勧めしていた「生き延びるためのラカン」を読んでいる*1。まだ途中までしか読んでいないんだけど、凄く面白い。

この本に書いてあることを使うと、この前はてなで書いた「『寂しいことの苦しさ』が、よくわからない」が上手いこと説明できそうだったので、にわか仕込みのラカンを使って、この記事を掘り下げてみるテスト。


【「欲望は他人の欲望である」(ジャック・ラカン)】

・世界のはて - 「寂しいことの苦しさ」が、よくわからない
孤独は、好きだ。周囲に他者さえ居なければ、孤独自体に苦痛を感じたことはこれまでの人生で全く無かったし、これからの人生でもたぶん無いのだろうと思う。

↑の記事で僕は、「孤独がつらいのは、周囲に比較対象となる『他者』がいるからであって、『他者』さえいなければ、孤独自体に苦痛を感じることはない」と書いた。これ、「生き延びるためのラカン」にはこうある。

ラカンの言った言葉でいちばんよく引用されるのが「欲望は他人の欲望である」というものだろう。そう、ラカンは欲望が僕たちの内面にあらかじめ備わっているわけじゃなく、常に他人から与えられるものだ、ということを強調したんだ。<中略>完全な孤独にあっては、欲望は生じない。みんなが欲望を持っていると信じられるから、僕も欲望を持つことができるのだ。

「生き延びるためのラカン」 P.20

えーと、そのまんまなんですけど(笑)。つまり個人に「コミュニケーションを取りたい」という欲望が発生するのは、周囲の人間がコミュニケーションを欲望しているからであって、完全に孤独な状況では、コミュニケーションへの欲望自体が発生しない。

そういえば昔、僕と彼女がレストランで食事をしていたとき、特に話すこともなくなって、ふたりとも黙ったまま数分間が過ぎるという事があったんだけど、このとき彼女は急に不機嫌になって、「Masaoはなんで黙ってるんだ!」と怒り始めた。理由を聞いてみれば、「他の客は楽しそうに会話しながら食事してるのに、うちらだけ黙ってる。仲悪いカップルみたいで嫌」とのこと。

でも、うちらはもう何年も付き合い続けているカップルだから、お互いが黙り合うというシチュエーションは、そんなに珍しいものでもなかったんだよね。

にも関わらず、このときに限って彼女が怒り出したのは、やっぱり「他の客は楽しそうに会話しながら食事してるのに」という部分が大きかったんだろう。ラカンっぽく言えば、「周囲の人間のコミュニケーションへの欲望を、彼女自身も欲望した」*2。それが満たされなかったから、彼女は不機嫌になった。

クリスマスやバレンタインの時期に、ことさら非モテが劣等感や寂しさを刺激されるのも、この「欲望は他人の欲望である」が原因なんだろう。

で、周囲の人間がみんな欲望を満たしていると感じられる状況下では、自分だけ欲望を満たせていないという惨めさが「劣等感」として感じられるということなんじゃないだろうか。これは、コミュニケーションへの欲望に限らず、世の中のあらゆる欲望に当てはまることなんじゃないかと僕は思う。

・世界のはて - 本当に学歴のない人間は、学歴コンプレックスなんか抱かない
コンプレックスは、「ソレが価値を持つ場所で、ソレを持っていない」という状況下で初めて喚起されるものなので、学歴が必要ない場所では、学歴を持っていないことはコンプレックスになり得ない。コレはべつに「学歴」に限った話ではなくて、「コミュニケーション能力」や「おカネ」や「社会的地位」でも同じ話です。


【動物は「本能」と「欲求」に突き動かされ、本能の欠如した人間は「言葉」から産み出された「欲望」に従う】
コミュニケーション不全から喚起される「劣等感」の正体について考察したところで、次は「寂しさ」について。この本では、動物が持つ「欲求」と人間が持つ「欲望」を分けて考えている。そして「欲望」は人間だけが持つ「言葉」を介して産み出されるのだという。

言葉を使うことによって、人間は「欲望」を手に入れた。動物は「本能」と「欲求」に突き動かされ、本能の欠如した人間は「欲望」に従う。<中略>人間は動物とはちがう。だいたい人間は、教わらなければなにもできない。言い換えるなら、あらゆる行動を、それこそケンカやセックスに至るまで、後天的に、学習によって習得する必要があるのだ。そして人間の学習は、そのほとんどが言葉の助けを借りて行われる。「欲望」も言葉に根ざした学習の産物なんだ。

「生き延びるためのラカン」 P.16 ~ P.17

で、動物の「欲求」は満足させることができるけれど、人間の「欲望」は満足することがないのだそうだ。なぜなら、「言葉」は実体を伴わない空虚な「記号」であり、その「言葉」から産み出された「欲望」もまた、実体を伴わない本質的な空虚さに満ちているから。「欲望」を満たそうといくらあがいてみたところで、いや、むしろあがけばあがくほどに、「欲望」の空虚さは増幅される。

たとえば人間の男は、オナニーで一時的に性欲が満たされた感覚を感じることができるけど、その後には空虚さが襲ってくる。そして、すぐにまた性欲は戻ってくる。完全に性欲が満たされることは、決してない。この空虚さは、「欲望」が本質的に持つ空虚さに由来する*3

僕の考えでは、この空虚感こそが、欲望本来の空虚感なんだ。射精によって欲望の生理的側面が満たされたかに錯覚するわずかな期間だけ、オトコたちは性欲の本質的な虚しさを、ほんの少しかいま見ているってわけだ。

「生き延びるためのラカン」 P.18


【「欲望」が全く得られない「劣等感」と、「欲望」が決して満たされない「寂しさ」】
ここでふと思ったのは、もしかしたら「寂しさ」という感情もまた、決して満たされることのない「欲望」から発生する感情なんじゃないかってこと。「コミュニケーションへの欲望」が満たされたと錯覚したあと、それが実は幻想だったと気付いたとき、人間は初めて「寂しさ」を感じるんじゃないだろうか。ちょうど、オナニーによって性欲が満たされたと錯覚した後で、初めて人間は空虚さを感じるように*4

もしそうだとすると、「寂しさ」という感情は、ある程度のコミュニケーションを他者と築いた後にしか感じられない感情だということになる。僕がコミュニケーション不全に対して「劣等感」を感じることはあっても「寂しさ」を感じることが全くないのは、「寂しさ」を感じるほどのコミュニケーションの蓄積がないからじゃないだろうか。

そんなことを考えていたら、タイムリーにはてぶでid:REVさんから↓のようなコメントをいただいた。

・はてなブックマーク - xito.jp - 寂しさはどこから来るのか
REV 『そのへん、無いもの、背中の羽はなくても困らないが、あるものが無くなると痛い。欲求というより切断不安と考えると便利かなと思っている。もしくは理想像との乖離。』
Masao_hate 『↑あぁ、なんとなく分かりました。「寂しさ」は「喪失」から来るもので、「劣等感」は「欲望」から来るものなのかな、と。だから持たざる者は、劣等感を感じることはあっても寂しさを感じることはない。』

↑で僕が言いたいのは、こういうこと。

まずコミュニケーションへの欲望が、他者が持つ「友人」「彼女」といったものにより喚起される。この欲望が達成できないとき、人は「自分だけは得ていない」ことに対して劣等感を感じる。

でも、コミュニケーションへの欲望は決して満たされることがない。友人や恋人とのコミュニケーションを通せばこの欲望は満たされたように一瞬錯覚されるが、これは欲望が本質的に抱える「空虚な満足」であり、一瞬の満足の後には寂しさが襲ってくる。さらに、友人や恋人との別れ等の経験すれは「喪失の痛み」としてさらなる寂しさを誘発させる。

だから、コミュニケーションを全く取らない、あるいは取ることができない人間は、「劣等感」を感じることはあっても「寂しさ」を感じることはない。僕がこの本を読んだにわかラカンの知識を使えば、僕が書いた「『寂しいことの苦しさ』が、よくわからない」の内容はこんな解釈になると思う。


【なんていうか、大変ですよね】
……と、ここまで「『欲望』は決して満たされることがない」ということから「劣等感」や「寂しさ」について考えてきたけど、こうやって考えていくと、他者の存在が前提となって生きている現代人は、ずいぶん大変な状況に立たされている気がしてくる。

だって現代人は、生きているだけで他者と接触することで決して満たされることの無い欲望を植え付けられ、欲望が全く満たされなければ劣等感を味わい、たとえ欲望がある程度満たされたとしても今度は空虚さに襲われるという、どこにも逃げ場がない悲劇的な状況にいるってことになるわけだから。ホント、人間の欲望は地獄だぜ!

……と悲観的なことを書いてみたけど、欲望が永遠に満たされないからこそ、人間はいつまでもモチベーションを維持することがでるという側面もある。資本主義は人間のこの習性をエンジンとして上手く利用して回しているシステムなわけで、「決して満たされることにない欲望」ってヤツも、モノは使いようということなのかも。

まぁそうしたものをエンジンとして動く社会というものは、ずいぶん脅迫的なものになりそうな気はしますけどね。

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*1 zoot32さんによる「生き延びるためのラカン」本体のレビューはこちら。「ラカンはこう読め!」も近々読んでみるつもり。

*2 「他者の欲望が彼女に転移した」という言い方が分かりやすいかも。

*3 人間の「性欲」は「欲求」に入りそうな感じがするけれど、これも「欲望」に分類されるらしい。理由は、万年発情期の人間の性欲には限りが無く、決して満足することがないから。これに対し、発情期を持つ動物たちは、発情期以外の期間には性欲自体が発生しない(=満足している)。これが動物の「欲求」と人間が独自に持つ「欲望」の違いらしい。でもそうすると、「食欲」なんかは動物も人間も関係なく「欲望」に分類されるんだろうかっていう話になる気もするけど、ここら辺どうなんだろうか。

*4 ……と書くと、コミュニケーションの「寂しさ」はオナニーの後の「寂しさ」と根は同じって話になって、いやんな感じだ。

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2007年10月20日 (土)

「人間」とは両想いが可能だけれど、「趣味」には片想いしかできないという決定的な違い

【渋谷カレーオフで、リアル揉め事発生!?】
よっぱらい研究所@はてな - antihop - 渋谷 DERORI
Twitterでナンパされて会ってきた - CROOK

↑でオフレポが上がってきている、はてなカレーオフに参加。僕的には、「いつもの人」化しているクリルタイ周辺とは一味違った面々と、新鮮な感覚で楽しむことができた。

他の方のオフレポでも触れられてるように、僕は花見川さんとガチンコ議論。テーマは「キミ等、脱オタしてまでモテようとする必要はあんの?問題」。花見川さんが脱オタ否定派、僕が「そりゃあやらずに済むならそれに越したことはないけどしょうがないのよ」という消極的肯定派で、この日の渋谷DERORI は、ハンドアックス飛び交うガンダムばりの激しい空中戦の戦場に。

  • [ハナミ・レイ]
    人間は、自分が信じる道を進めばいつかは認められるんだ!「モテ」なんかのために望まない道を選択する脱オタなど、認めない!(ドギューン!!)*1
  • [マサオ・アズナブル]
    聞いたようなことを言う…世間は、オタクたちのエゴ全部を飲み込めやしない。(バッシャァァァァ!)*2
  • [ハナミ・レイ]
    オタクたちの知恵は、一般人との文化の違いだって乗り越えられる!(ブオォォォン!)*3
  • [マサオ・アズナブル]
    ならば今すぐリア充どもにオタク文化の価値を認めさせてみせろ!(ドガシュゥゥゥン!バリバリバリバリィッ!!)*4
(↑元ネタ:逆襲のシャア

ネット社会では大人気の揉め事も、リアルでやるとドン引きらしく、すぐ隣にいたへぼめがねさんはビビりまくり、到着したばかりのlegnumさんのほうへと逃げて行ってしまった。ごめん。でもnarukamiさんは面白そうに話を聞いてて、女性は強いなぁ、とか思った。

議論のほうは最終的に、「脱オタはモテることが目的ではなく、コミュニケーションの幅と、自分の世界を拡げることが目的なんですよ」ということを共有する方向へ。最後は「なかなかやるじゃねぇか」「お前もな」と、川原で夕日を見ながらガッチリ握手でお互いの友情を確認し合って終了。めでたし、めでたし\(^o^)/


【承認欲求を満たしてくれるのは人間だけ】
帰りの電車が花見川さんと一緒だったので、議論の続きで「自分が価値を感じていること(今回の場合はオタク趣味)が他の人間からは認められない辛さ」みたいなことを話してたんだけど、そこで花見川さんが興味深い一言を。

「でも僕だったら彼女がいたとして、それが凄いブサイクで周りの友達みんなから笑われても、自分が満足できてればそれで良いと思いますよ」

ほう、と。僕はそれまで、「彼女」と「趣味」を同列に考えたことがなかったので、花見川さんのこの考え方は新鮮で、驚いた。確かに「彼女」だったら僕も花見川さんと同じように感じる。これは考えたことのないテーマだったので、しばらく考えた後で、こんな感じのことを返した。

「『彼女』は人間だから、愛し返してくれるじゃない?でも『趣味』は自分から愛すことはできても、愛し返してはくれないのよ。非モテ話ではよく『承認欲求』の話が出てくるけど、『承認欲求』を満たしてくれるのは人間だけ。そこが『人間』と『そうじゃないもの』との違いじゃないかなぁ。『承認欲求』が満たされていないから、非モテは『人間』を求めるのよ」

簡単に言えば、「趣味」相手には片想いしかできないけど、「人間」とは両想いになれる可能性があるってこと。それが、「人間」と「そうじゃないもの」との決定的な違いだってこと。「彼女」は「趣味」と違い、向こうの方からこちらの「承認欲求」を満たしてくれる。だから、他の人に認められなくても平気でいられる。

花見川さんと別れてから、なんで花見川さんは「趣味」と「彼女」を同列に考えることができて、僕は考えたこともなかったんだろうと考えてみたんだけど、これは花見川さんにとって「承認」は空気のように当たり前に得られるものなので、両者の違いを意識したことがなかったってことなのかも知れないな、と思った。


【『ありのままの自分』のままで承認されるという感覚】
↑に書いたように、人間は「愛し合う」ことができる点が、趣味とは違う。でも、人間を相手にすることには「愛したのに、嫌われる」というリスクも同時に付きまとう。これも、人間特有の要素。趣味はこちらが一方的に選ぶものだけど、人間は向こうからも「選んでくる」。

人間にとって、友人や彼女は一緒に居るだけで「承認欲求」を満たしてくれるものなんだけど、これは相手が自分のことを「選んでくれた」という感覚を感じるからなんだよね。

で、様々な理由で友人や彼女に恵まれず、承認不足に陥ってしまった人にとって「友人や彼女」や、それを通じた承認っていうのは、気がつけばそこにある空気のように自然なものではなく、「勝ち取る」ものになる。「ありのままの自分」では、周囲の人間に選んでもらえないという感覚が、これまでの人生経験を通して身についているから*5

これに対して花見川さんは「人間は、自分の信じる道を進めばいつかは認められるんだ」と言う。これは、花見川さんが自分の人生を通じて得た感覚なんだろうと思う。

でも僕のように「ありのままの自分」を通した結果承認不足に悩み、脱オタすることによって初めて承認欲求を満たすことができたような人間には、残念ながら花見川さんの言葉は届かない。それどころか、妬ましさすら沸いてくる。非モテ界隈で大人気の、↓の文章のように*6

はてなブックマーク - 今月の放言 本谷有希子
「自分を受け入れてもらえる環境で育ったんだろうなあ」って。拒否される怖さを知らない人間をみると、憎しみが沸いてくるんですよ(笑)


そして僕は、人類への絶望とルサンチマンの権化マサオ・アズナブルと化し、叫ぶわけだ。「ならば今すぐリア充どもにオタク文化の価値を認めさせてみせろ!」と。そうすれば僕は「ありのままの自分」のままで、他者からの承認を好きなだけ得ることができるのだから。


【余談】
ちなみに精神分析や心理学の分野では、こうした「ありのままの自分が認められる」感覚を空気のように自然な感覚として感じることができるようになれるか否かは、幼少期の両親との関係が大きく関係していると考えられているとか。

花見川さんのブログでは、花見川さんが両親を尊敬してるんだということがよく分かる文章をときどき見るんだけど(これとか)、花見川さんの今日書いたような感覚には、このへんがあるのしてるのかも知れないなと、勝手に想像しています。

花見川さんだってこれまでの人生の内で人間関係の様々なトラブルで「ありのままの自分」が承認されないということもたくさんあったんじゃないかと思うんだけど、それでも「人間は、自分の信じる道を進めばいつかは認められるんだ」と感じることができる根拠には、こういう親との関係が大きく影響しているのかもな、と。

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*1 ビームライフルを発射したSE。

*2 IフィールドでビームライフルをはじいたSE。

*3 ビームサーベルを抜いたSE。

*4 ビームサーベルがぶつかり合って、なんか稲妻とか出ちゃってる感じのSE。

*5 ちなみにこの「ありのままの自分では他人に相手にされない」という感覚をあまりにも強く内面化してしまうと境界性人格障害(『エヴァ』のアスカみたいなヤツ)などの症状が発症してしまうらしい。

*6 原文がバックナンバー化で会員制になってしまっていたので、URLはブクマ。こちらの本谷有希子さんの回が原文。

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2007年10月 7日 (日)

異文化コミュニケーションは、労多く実り少ない ~ 社会規範の内面化と個人の幸せに関する考察

【『異文化コミュニケーションをするべきだ』という脅迫概念】

・別に誠実に対話したからと言って分かり合えるわけじゃないんだよね
http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20071005/p1
悲しいかな。努力はすべきだと思うし、過程が無駄だとは思えないけれど、その人間性において立脚すべき点があまりに違うと、表面上の納得は可能かも知れないけれど、心底分かり合うってのは難しいと思う。

同感。

しかしこの事実から眼を背けるかのように、「異文化コミュニケーション」を素晴らしいものとして賞賛、推奨する世間の声は大きい。

そして実際、10代の頃の僕は、「価値観やノリが異なる者だからといって、他人を排除するのはよくない」「いろいろな価値観やノリの持ち主と付き合えるようにならなくてはならない」と強く考えていた。

スクールカースト的な同属で固まる学校のコミュニティを強く嫌悪し、それに対抗したくて全てのクラスメイトと同じように接する努力もしていた。中学生のときの通知表には、「すべての友人と同じように接するので、周囲の人間から信頼されている」と書かれ、嬉しかったことを覚えている。

しかし実際のところ、僕はクラスに心から「友人」だと思えるような相手は存在していなかった。「価値観やノリが異なる相手とも同じ相手とも平等に接する」ことは、「価値観やノリが似た相手との深い繋がりを持つ」ことを難しくするからだ。

id:p_shirokumaさんは、「脱オタとは、自分と異なった価値観を持つ集団ともコミュニケーション可能にし、自分の世界を広げることだ」と言う。「脱オタクファッションガイド」の久世氏も同じことを言っていた。僕が脱オタをした背景にも、この思想が僕が昔から考えていた「いろいろな価値観の持ち主と付き合えるようにならなくてはならない」と合致したからということが、一因としてある。


【異文化コミュニケーションは、労多く実り少ない】
しかし最近の僕の考えは、これとは180度違う。僕が最近思うことは、「価値観やノリがあまりにも異なる相手とのコミュニケーションは、双方にたいした実りをもたらさない」ということだ。異文化コミュニケーションは、労多く、実り少ない。これが、脱オタ等を通じて「異文化コミュニケーション」に挑戦した僕の、偽らざる実感だ。

ファッションやクラブ通いを通じて得た友人には、僕とはノリが合わない人間が多かった。頑張ればコミュニケーションを取れないこともなかったけれど、根本のノリの部分で、どうしてもソリが合わないと感じられた。

そうしたコミュニケーションには、常に「無理してる感じ」が付きまとった。それは楽しいものではなく、苦痛を感じることのほうが多かった。そのコミュニケーションから得られたものは、少なかった。

しかし世の中には、僕とノリが近い人間もいる。そういった人間とのコミュニケーションは、素直に楽しい。素直な自分を出せる気がする。そうしたコミュニケーションは、とても意味があることのように僕には感じられる。僕がブログをやっていて最も良かったと思うことは、こうした「ノリが近いと感じられる人間」にたくさん出会えたことだ。


【社会の規範と個人の幸せ】
結局のところ、「異文化コミュニケーションが必要だ」という言説は、「社会」を中心に物事を考えて出てきた発想なのではないだろうか。価値観の多様化が進み、少数のマイノリティ同士が閉じたコミュニティで固まる「島宇宙化」が進めば、社会にとっては都合が悪いことが多いだろう。

たとえば音楽業界。いま、日本人の音楽嗜好は多様化が進み、かつてのようなメガヒットはほとんど生まれなくなっている。こうした状況では、音楽業界的にはターゲットユーザーを絞り込むことが難しくなり、1つの商品当たりの売り上げも落ちる。これは、商売する側にとっては都合が悪いことだろう*1

ビジネスに限らずとも、「異文化」に所属する人間同士が対立ばかりしていては、社会は上手く回らないだろうということは容易に想像がつく。そうした事態を避けるために、「異文化コミュニケーションは素晴らしいものだ」という価値観が、建前的に社会に存在するのではないだろうか。そういった意味で、この価値観は「道徳」や「良心」といった概念に近いものなのかも知れない。

・レジデント初期研修用資料: 良心なんて最初から無かったhttp://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2007/10/post_550.html
たぶん最初から、良心とか奉仕の心、感謝の心も存在しなかった。

それを仮定したほうが社会コストが少ない状況があって、技術が進歩して、今はそれがなくても大丈夫になって、良心は姿を消した。

しかし、社会的にそれが必要だからといって、それを真に受けて実行することが個人の幸せに繋がるとは必ずしも限らない。結局のところ、人間はノリが同じ人間と一緒にいるほうが楽しく、幸せを感じるものなのだ。

インターネットは、当初異文化コミュニケーションを活性化させるツールになると期待されていたが、現実には同属との出会いを広げる島宇宙化促進ツール的な方向に発展していった。しかしこれもシステムの特性というよりは、人々がインターネットをそう使いたいと希望し、その想いが反映されたというのが実際のところなのではないだろうか。

そして個人の幸せを中心に考えた場合、コミュニケーションの「島宇宙化」は決して悪いことではないと僕は思う。


【誰が為の社会規範か】
ここまで散々、「社会規範を守ることは、個人の幸せには必ずしも結びつかない」と書いてきた。しかし実際のところ、「社会」と「個人の幸せ」は、無関係ではない。社会を維持することは、個人の幸せにとっても重要だ。「規範」は、個人の勝手に任せていては社会が維持できなくなるような部分をなんとかやりくりするために、「正しいこと」として存在する。

しかし、「社会の維持」を追求するあまり規範の建前を頑なに信じ込み、そのために自分の幸せが犠牲になるようでは本末転倒というものだろう*2。人々は社会を維持するために生きているのではなく、自分の人生を生きているのだから。そして社会は、そのための道具に過ぎないのだから。

たぶん、あなたはもっと自己中心的に振舞っていいのだ。僕たちには、なにもそこまでして「社会」に付き合ってやる義理はない。

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*1 20代前半、ゲーム業界に入った頃盛んに言われていたことに「ライトユーザーの獲得」があった。商売的に見れば、それは正しいことだろう。しかし、「個人の幸せ」を中心に考えたとき、それは果たして本当に正しいことなのだろうか。少なくとも僕個人にとっては、FFやドラクエや脳トレが何100万本売れることよりも、CAVEやライジングのSTG作品がもっとたくさん家庭用に完全移植されてくれたほうが、余程「幸せ」になることができる。

*2 「非モテ」の人達には、この規範の内面化が進みすぎ、「自分の幸せ」が犠牲になってしまっている人が多いような印象を僕は受ける。

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2007年6月 7日 (木)

褒めコミュの暴力性を自覚した瞬間

【褒めたいから、素直に褒めただけなんだ】
・吐き捨て
・私は女だけど、男とは性欲のかたまり、と思って付き合ってるから
・どんだけ男に夢見てんだよと

最初の記事は、男の性的視線がキモいという内容。後のふたつは男の性欲ってのはそんなもんだという意見。書き手はすべて女性。僕は後半2つの意見に共感する人間なので、それぞれの記事に↓のようなブクマコメントを残した。

・はてなブックマーク - 吐き捨て
Masao_hate 『なぜ性欲を持たれただけで「友情が成り立たない」となってしまうのかが不明。男という他者を理解しようという気持ちが全く感じられませんね。性欲も含めて人間だという発想はこの女にはないのか。 』

・はてなブックマーク - 私は女だけど、男とは性欲のかたまり、と思って付き合ってるから
Masao_hate 『貴方は大人の女性ですね。尊敬する。』

・はてなブックマーク - どんだけ男に夢見てんだよと
Masao_hate 『貴方も大人の女性です。素晴らしい。』

ここまで書いて、ふと気付く。後半ふたつの記事で、僕は褒めコミュを、しかもお世辞ではない心からの褒めコミュを行っているわけだけれども、1番目の記事「吐き捨て」に共感する人たちは、僕のブクマコメを読んでとても不快な気分になるだろうなと。

あぁ、コレはあれだ。「褒め」もまたひとつの価値判断であり暴力であるという、少し前にはてな界隈で話題になった、例のアレだ。

・月がでたでた月がでた - 「手榴弾」と「砂糖菓子」
ワタシにとっては、「誰かを褒めること」からして相当に勇気の要る行為だ。
誰かを「褒めること」も「けなすこと」も、実は「相手を自分の価値観の物差しによって評価付け、それを相手にハッキリ伝える」という点では同じ。

あぁ、まさに恋愛の素晴らしさが語られれば語られるほどに非モテ童貞処女の居心地が悪くなるかの如く、イケメン・美人が褒められれば褒められるほどにキモメン・ブサイクが抑圧を感じるかの如く、ある存在・価値観を「褒める」ことは、その対極にある存在・価値観を「けなす」ことに直結してしまうという、この「褒めの暴力性」。

この「暴力」に気付いた僕は、「尊敬する」「素晴らしい」という言葉を、一旦削除した。自分の暴力性に耐えられなくなったからだ。でもしばらく考えて、やっぱりまた書き戻した。たとえある価値観を持つ層に暴力を振るうことになっても、僕の評価を「この相手」に伝えたいと感じたからだ。伝えることに、価値があると考えたからだ。

どちらの行動が正しかったのか、僕にはよくわからない。

「褒めコミュ」は、「私は貴方に価値を感じていますよ」と表明し、相手に自信を与えるコミュニケーション様式だ。このこと自体は、価値あることだと思う。ただその裏側には、対極にある存在への「暴力」が常に備わっている。「差別」がある。このことに、せめて自覚的でありたいと僕は思う。

僕ははてな界隈に、理由もよくわからず生理的と言っていいほどに嫌いなIDの人が何人かいる。この嫌悪感の理由がずっとわからなかったのだけれど、これはどうもこの人たちが、僕が嫌悪する価値観を無邪気に褒めまくっていることに起因しているらしいと、最近気付いた。

そしてこの人たちへの僕の嫌悪感は、日頃から僕の価値観への嫌悪を表明している人への嫌悪感よりも、なぜかずっと強い。暴力性への「無自覚さ」が、自覚的な嫌悪を表明してくる人たちに比べ、より根深い不快感を刺激するのだろうか。自分が信じる価値観をけなされることよりも、自分が嫌いな価値観への肯定を示されることのほうが、人間は腹が立つものなのだろうか。

「褒めコミュ」は味方を増やすことに役立つとよく言われる。だが「暴力性」への自覚を欠いた褒めコミュは、自分でも意図しない場所で、結果的に多くの敵を作ることに繋がる可能性も秘めているのかもしれない。


【思いつきを追記 2007.06/08 AM.6:00】
今回書いた「褒めの暴力性」を踏まえると、上司が部下を褒めるとき、他の大勢の社員の前で褒めるという行為は、結構考えものかも知れない(ビジネス書とかでは推奨されてる気がするけど)。褒められた本人は嬉しいしやる気も出るだろうけど、周囲の人間がそれをどのように感じるか。

まぁそこらへんのフォローもしっかりやるのが良い上司ってことなんだろうし、あえて出来ない人間の劣等感を刺激して奮発させるって手法もあるからなぁ。個人的にはあんまり好きじゃないやり方だけど。

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2006年4月22日 (土)

「コミュニケーション能力」に、具体的な実体なんて存在しない。なぜならこの言葉自体が「結果論」だから。

【『コミュニケーション能力主義』=、『勝てば官軍主義』】

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20060412/1144830720
行動学で言うコミュニケーション とは、他個体の行動の確率を変化させて 自分または自分と相手に適応的な状況をもたらす プロセスのことである。

byジャレド・ダイアモンド博士

シロクマの屑籠(汎適所属) - DQNや自信過剰男性を選ぶ女性もまた、男性側の諸シグナルに反応している
NaokiTakahashiの日記 - コミュニケーション能力と恋愛

上に挙げたふたつの記事と、行動学上のコミュニケーションの定義*1を元に考えたこと。結局のところ、この行動学の定義でいくと

・「相手を思いやる優しさ」も
・「空気読む」のも
・「無根拠に自信を持つ」のも
・「相手の都合を無視して自己中に振舞う」のも

自分の利益になるように「成功」した(引用記事で言えば『女をゲットできた』)行動だけが「コミュニケーション能力が高い行動」として認められるってことなんだよなぁ。「失敗」した行動は、プロセスに関係なくすべて「コミュニケーション能力が低い」とされる。要するに、「勝てば官軍」。

でもそうだとすると、ここに挙げたすべての行動は、相手次第で「成功」することもあれば「失敗」することもあることがわかる。

人間には、「性格」「好み」「価値観の違い」「それまでの人生経験」等の違いがある。だからある人にとっては「優しい人」が「コミュニケーション能力が高い人」ってことになるし、ある人にとっては「無根拠でも良いから自信満々な人」が「コミュニケーション能力が高い人」ってことになる。

「コミュニケーション能力が高い」という評価が、時に正反対の要素を持つ行動に対して同じように使われるのは、ここらへんに理由があるのだろう*2

つまり、「コミュニケーション能力」という言葉は、「結果論」なのだ。結果を評価する言葉だから、どんな行動も相手次第で時に「コミュニケーション能力が高い」行動になりうるし、時に「コミュニケーション能力が低い」行動になりうる。「どんな相手にも絶対的にコミュニケーション能力が高い行動」なんてものは、存在しないのだ*3

実際、僕の周囲には一般的に「コミュニケーション能力が高い」と思われがちな、「ナンパ師」や「合コンの達人」を、「遊ばれて捨てられそうだから嫌い」と敬遠する女の子が結構いる。これはコミュニケーションの「失敗」であり、彼等は彼女達から見れば、「コミュニケーション能力が低い人間」ということになるだろう。

また、「コミュニケーション能力の高低」は、「相手」だけだけではなく、「環境」にも依存する。

ある環境では「自己中な振る舞い」として「コミュニケーション能力が低い」と否定される行動が、別の環境では「自己主張がハッキリしている」となり「コミュニケーション能力が高い」と評価されることもある。

殺人だって、戦場では自分が生き残るために有効なコミュニケーション形態だ。ためらいなく人を殺せるような人間は、戦場という環境では「コミュニケーション能力が高い」と言える。さすがにコレは極論だけど、行動学上の定義ではそういうことになる。


【『コミュニケーション能力が高い人間』とは、どんな人間か?】
……と、ここまでの考察を基に、じゃあ(あくまで相対的に)コミュニケーション能力が高い人間とはどんな人間かって話を考えてみたんだけど、どうも上手くまとめられない。とりあえず僕はこれにはみっつくらいの考え方があると思っていて(もっとあるかも)、それは

(1).「マクロから見て相対的に成功する確率が高いコミュニケーション形態を持つ人間」を、コミュニケーション能力が高いとする考え方(市場論的考え方)。

(2).「その人間の所属する比較的ミクロな環境に適したコミュニケーション形態を持つ人間」を、コミュニケーション能力が高いとする考え方。(相対論的考え方)

(3).「あらゆる環境において、最も効果的で自分の利益が最大になるような行動を柔軟に取れる人間」をコミュニケーション能力が高いとする考え方。(八方美人的考え方)

というもの。

この中で一番コミュニケーション能力が高いのが(3)なのは間違いない。世の中で求められてる「コミュニケーション能力」の実体は、コレっぽい。でもこんな完璧超人的生き様が、果たして人間に可能なのかという問題がある(笑)

あと、「人間は所詮ミクロな単一環境でしか生きていないという事実を考えると(1)や(3)のコミュ力の高さは意味ねーよなぁ」とか、「かといって世間で言われるコミュ力の高い人間っていうのは(1)や(3)の意味合いで使われることが多いよなぁ。就活とかで問われるのもコレっぽいしなぁ」とか考えてみたんだけど、なんだかお互いが複雑に絡まりあっていて、よくわからない。

ムリヤリ結論めいたことを言えば、個人が普段生活するぶんには(2)のコミュニケーション能力が一番重要なんだけど、「就活」とかのパブリックな領域では、(1)や(3)のコミュニケーション能力が判定に使われるという感じかな……?あと、(1)や(3)は、「いろいろな環境で」生きるときに、あると便利なものなのかも知れない。

とりあえず今回はここまで。あとはみんなで適当に考えてみてくれ!丁度こんな記事も出ていることだしさ!!(逃げ)

http://artifact-jp.com/mt/archives/200604/howdonotyousay.html
思った瞬間に言って、人からいろいろ言われてパッチを当ててもらうという考え方もあります。

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*1 この行動学上の定義は、現在一般的に使われている「コミュニケーション」の定義にかなり近いと僕は思っているから、この定義を「一般的な」コミュニケーションの定義だということにして話を進める。

*2 僕は昔、これをネタに「カオはココロより重い」という記事を書いたけど、ここで「ココロ」を「コミュニケーション能力」に置き換えると、「ココロに良し悪しなんて存在しない。あるのは相性だ」→「コミュニケーション能力に高い低いなんて存在しない。あるのは相性だ」ということになる。

*3 ゆえに企業が「コミュニケーション能力の高い人材が欲しい」と言うとき、それは「我が社が成功できる人材が欲しい」と言っているわけで、これは何も言っていないに等しい。まるで「晩ごはん何が良い?」と聞かれて「おいしいもの」と答える子供のようだ。そんなん言われなくてもわかっとるわい!就活者の困惑も尤もだと思う。

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2006年4月17日 (月)

過ぎたるは及ばざるが如し。もちろん、コミュニケーション能力も含めて。

【自分で自分の首を絞めることは、『社会適応的』とは言わないし、ひいては『コミュニケーション能力が高い』とも言わない】

みんな、残酷な娑婆世界で必死に生きている。だったらそれでいいと思う。
コミュニケーションが剣だって事を示す実例

ここらへんの、シロクマさんの記事への私的レス。後者の「拳銃うんぬん」の文章、少々露悪的過ぎる感はあるものの、(現在巷で使われている)「コミュニケーション能力」の暗黒面を言い当てた良い文章だな、と。

でもね。

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20060412/1144830720
行動学で言うコミュニケーション とは、他個体の行動の確率を変化させて 自分または自分と相手に適応的な状況をもたらす プロセスのことである。

byジャレド・ダイアモンド博士

という、シロクマさん自身が引用した行動学上のコミュニケーション定義を採用するとしたら、「拳銃押し付け」や「空気読め」なんていうのは、やっぱりコミュニケーション能力が「低い」人間の取る行動ですよ。これらのコミュニケーション行動の能力的評価は、「(現代の社会規範から言って)悪い」というよりも、やっぱり「低い」。僕に言わせてもらえれば。

なぜなら世の中には、「因果応報」というものがあるからです。「他者に拳銃を押し付ける」のであれば「自分が他者から拳銃を押し付けられる」危険性を容認し、覚悟する必要があるし、「他者に空気読めと場の圧力を押し付ける」のであれば、「自分が他者から空気を読まされる」息苦しさを容認し、覚悟しなければならない。

そうして社会を自分自身すら生き辛い、適応の難しい方向にわざわざ持っていく行動は、短期的には適応的でも、長期的に見れば自分で自分の首を絞めている、「社会適応上不利な状況をもたらす行動」です。これはやはり行動学の定義から言っても「コミュニケーション能力が低い行為である」と言わざるを得ない。

これは例えるなら、ゴミのポイ捨てみたいなもんです。ゴミのポイ捨ては、短期的に見れば持っているゴミがなくなって適応的ですが、長期的には街中ゴミだらけになって、自分自身も生き辛い社会ができてしまう。

だから僕は、「拳銃押し付け」「空気読め」といったシロクマさんが言うところの「悪い」コミュニケーション能力を駆使する人間に対しては、

m9(^Д^)プギャー!コミュニケーション能力、テラヒクス!!

と、今後も罵り続けるつもりです。まぁ罵ったところで社会的コンセンサスが得られたりするわけではないんですが、単純に「バカだな」と思うし、社会が人間にとって適応しづらい状態に変えられていくことには、感情的にも実利的にも、少しでも抵抗しておきたい*1

これが僕の取る「社会適応戦略」です。もちろんこの戦略は、リアル娑婆世界でやるにはリスクが高すぎるので、ネットでのみ展開するというリスクヘッジも怠りなく(笑)*2


【過ぎたるは及ばざるが如し】
この「自分で自分の首絞めてますよ論」をもう少しマクロに広げると、「コミュニケーション能力主義」っていうのは、「資本主義」や「産業革命」みたいなもんだと思うんです。

「資本主義」が「食うに困らない豊かな社会」を実現した反面、「行き過ぎた資本主義」が「過当競争」を生み出したように。

「産業革命」が「文明の利器という便利なツール」を人類にもたらした反面、「行き過ぎた産業革命」が水俣病やイタイイタイ病といった「公害病」を生み出したように。

「コミュニケーション能力主義」は「円滑で協調的で安心できる社会」をもたらす反面、「行き過ぎたコミュニケーション能力主義」はメンヘルの増加や自由の制限といった「ストレス社会」を生み出してしまう*3

要は、「過ぎたるは及ばざるが如し」ってことです。

そしていま、「資本主義」に対しては共産主義のような、「産業革命」に対してはグリーンピースのような、「行き過ぎ」に対してカウンターを当てる役割の人々がいるわけですが、「コミュニケーション能力主義」にはいまのところ、これと言った「抵抗者」がいない。

だからまぁ、「『コミュニケーション能力』という言葉は美化されすぎ」とか「でもさ、『利害と感情の構造を操る能力』が偏重される世の中って、もの凄い生き辛そうじゃね?」とか言って、コミュニケーション能力の暗黒面を「あえて」強調しておく役割の人がいてもいいんじゃないですかね?

現状っていうのは、水俣病やイタイイタイ病が日本中に蔓延しているにも関わらず*4、誰もそのことに気付かず(あるいは無視して)「神話」が妄信されているような状況だと思いますので。


【最後に念のため】
まぁここまで書けば、そんなこと考えてる人もいないと思うんですが、僕がコミュニケーション能力否定主義者だと勘違いしている方がいるかも知れないんで、一応。

当然ですけど、僕だってリアル社会では「コミュニケーション能力」重視してますよ。空気読んで、政治力駆使して、愛想笑いだって使って、必死で「コミュニケーションサバイバル」してますよ。そんなん当たり前じゃないですか。

そうじゃなくて、単純に、「何事もやり過ぎはよくないよね」ってだけの話です。だから、「Masaoはコミュニケーション能力否定主義者の非国民だ!死ねばいいのに!!」なんて、まるで社会反逆者のようなレッテル貼って、僕のこと呼ぶのはやめて下さいね(はーと)。

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*1 これはマクロの視点では社会的に無力かも知れませんが、少なくとも僕自身が言いたいこと言えてスッキリするくらいの効果はあるし、僕のブログを見た人に共感を与え、賛同を得られる(かも知れない)程度の意味はあるでしょう。

*2 まぁシロクマさんはこんな記事も書いているので、僕が言ったようなことも折り込み済みっぽいですが。

*3 さらにいえば、あまりにも過剰なコミュニケーション要請に、人間は「生物学的に」耐えられないのではないかと僕は疑っています。でなければ、現代社会がなぜここまで「精神疾患天国」的状況になってしまっているのでしょう?

*4 もちろんコレは「コミュニケーション能力主義社会」の話では、過剰適応をはじめとしたメンタルヘルス的な病に置き換えることができます。

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2006年4月12日 (水)

でもさ、「利害と感情の構造を操る能力」が偏重される世の中って、もの凄い生き辛そうじゃね?

【そりゃぁおっしゃる通りなんですが】

分裂勘違い君劇場:「おまえも空気の奴隷になれ」って?「空気読め」の扱い方次第で人生台無し
シロクマの屑籠(汎適所属):全てのコミュニケーションは、政治的である

現状、「コミュニケーション能力」と呼ばれている能力が、おふたりが言う「政治力」なり「利害と感情の構造を操る能力」であり、それが社会でより良く生きるための必須能力だということには同意なんですけどね*1

でも僕は、シマウマも生き易い世の中が良いと思うので、必要以上に「利害と感情の構造を操る能力」が重視される世の中は、嫌なんですよ。それになんだか凄く生き辛そうじゃないですか。お互いがお互いの「利害と感情」を常に計算に入れて付き合っていく世の中なんて。

そういった能力が、社会適応に必要かつ重要な能力だというのはその通りだと思うんですが、それが過剰に重視される世の中には反対です。そして今、社会はそういった「過剰に利害と感情の構造を操る能力が求められる社会」に向かっている気がしてならないんですよ。

たとえば前回の記事でも書いた、「最近、企業が新人に最も求めているものは、コミュニケーション能力である」という事実。たとえば

空気の読めない子供が最も嫌われる
好感の持てる子ランキングで、社交性を示す項目が多く上位に
一番なりたいのは人気者

といった学生に対する調査結果。これらは、オン・オフを問わず、最近の世の中では「コミュニケーション能力」が非常に重視されるようになっていることを物語っています。

そしてこういったコミュニケーション能力偏重の弊害が、うちのサイトがよく取り扱う、摂食障害や脱オタといった過剰適応者の問題に表れているのではないでしょうか?


【コミュニケーション能力偏重の世の中は、もの凄い生きづらそうじゃね?】
だから僕は、コミュニケーション能力が社会適応に必須の能力であることは認めたうえで、自分もコミュニケーション能力を磨く努力をしつつ、それでもなお、過剰にコミュニケーション能力が重視される世の中は、お互いがお互いの首を絞め合うような、嫌な世の中だと考えています。

そして、現在の「コミュニケーション能力」という言葉の持つイメージは、過剰にコミュニケーション能力を重視する方向へ世の中を煽るよう、美化されすぎていると感じます。だから僕は、この言葉の使われ方に違和感を感じ、前回の記事でそのことを指摘しました。

ちょっと考えてみて欲しいんですが、いま「コミュニケーション能力」とか「空気嫁」とか「政治力」とか呼ばれている、「利害と感情の構造を操る能力」なんてものが、「必要悪」以上の力を持つ世界が、果たして「生き易い世の中」なんでしょうか?僕は、もっと気楽に「コミュニケーション*2」できる世の中のほうが好きですけどね。

http://d.hatena.ne.jp/sdmt/20060202/1138829326
最近思うのがソーシャルスキルの高い社会ってのは一概に幸せなのかね?ってこと。往々にしてソーシャルスキルの高い人ってのはそうでない人に厳しい。だってそれはそうだ。ソーシャルスキルはギフトじゃなくてスキルであって努力して身につけたものなんだから、スキルの高い人にはやっぱりそれなりのこだわりみたいなものがあるわけで。そしてこだわりにそぐわない人にたいしてひどく冷淡になる傾向がある。

僕はソーシャルスキル自体はとても重要な技術ではあるけど、人間関係においてソーシャルスキルだけが唯一の共通評価軸になったりする社会はいやだなあ、と思う。ていうか空気の読める人ばっかの世界って何が面白いんだろう? 何つーか多様性の面からもマイナスっぽいよね。空気が読めて気配りのできる人は、全体の何割かでいいんだよ。

超同感。

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*1 シロクマさんの「情愛的コミュニケーションも政治的だ」に関しては、そりゃあ政治的要素は「ある」だろうけど「薄い」でしょとか、父ちゃんが母ちゃんの前で平気で屁ぇこいたりする「屁こきコミュニケーション」なんかも政治的なのか?とか若干の反論はあるんですが、まぁ置いといて。

*2 ここでいう「コミュニケーション」は、「利害と感情の構造を操る能力」のようなニュアンスではなく。

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2006年4月11日 (火)

「コミュニケーション能力」という言葉は美化されすぎ

【いま社会や企業から本当に求められているものは、『コミュニケーション能力』じゃなくて『政治力』だ!】
fromdusktildawnさんの記事にあとでTBしようと思ってブクマしといたら、先に本人にお返事されてしまった。中途半端にコメントしとくもんじゃないなぁ。今回の記事は、↓の2つの記事への返信。

政治力から分離された「コミュニケーション能力」は机上の空論
「彼はコミュニケーション能力は高いけど、いつも仲間に受け入れられないのよ」

現状、「コミュニケーション能力」という言葉が、「政治力」を含めたものとして使われているということ自体は、fromdusktildawnさんの指摘どおりだと思うし、異論もないんです。

でもそれだったら、「コミュニケーション能力」という言葉はいまよりもっとダーティーなイメージを持って世間から認知されて欲しいし、さもなければ「政治力」とか「社会適応力」とか別の言葉を使って欲しい。これが僕の考えです。

いま「コミュニケーション能力」は、とても素晴らしい、人生に必須の、まるで魔法のような能力だと思われていますよね?企業が新人に一番求めるものは、ここ数年ずっと「コミュニケーション能力」だし。

でもコレ、要は「政治力のある人間が欲しい」ってことの言い換えなんですよ。だったら「我が社は政治力のある人間が欲しい」って素直に言えよ、と*1。でもそこを「コミュニケーション能力」とか言って美化しているところが、「『うんこ』を『カレー』に無理やり言い換えて、うまいうまい言って食ってるみたいで気持ち悪い」んです。僕には。


【『社会的コミュニケーションスキル』と『情愛的コミュニケーションスキル』】
結局、僕とfromdusktildawnさんで、「コミュニケーション能力」の定義が違うんだと思うんですね。僕は以前、「コミュニケーション能力」を「社会的コミュニケーションスキル」と「情愛的コミュニケーションスキル」に分けて考えたことがあります。

http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/log/2005/08/post_6a1d.html
「他人を意のままに動かすスキル」としての「コミュニケーションスキル」は、「社会的に」求められているコミュニケーションスキルであって、「家族・恋人に」求められるコミュニケーションスキルとは違うと思う*1。こういった極親密な関係に求められるものは、「包容力」「共感力」「寛容さ」「思いやり」といった「情愛的コミュニケーションスキル」ではないかと*2。

僕のこの記事の言葉を使えば、「コミュニケーション能力」という言葉をfromdusktildawnさんは主に「社会的コミュニケーションスキル」的なニュアンスで捉えていて、僕は「情愛的コミュニケーションスキル」的に捉えている。

で、このふたつはキッチリ区別して考えるべきだというのが、僕の考えです。

でもまぁここらへんは僕個人の感覚の話なんで、「んなこと言っても、実際そんなふうに分けて使われてないじゃん」って言われれば、「そうですね」とニート並のコミュニケーション能力で返すしかないんですが(苦笑)

でも、やっぱり気持ち悪いんだよなぁ、コレ。この「二種類のコミュニケーション能力」を分ける言葉、なんかいいのないかなぁ。


【追記】
ちなみに「社会的コミュニケーションスキル」と「情愛的コミュニケーションスキル」の違いに関しては、スクールカーストに絡めて↓の記事でも触れています。興味のある方はこちらもどうぞ。この記事では、「社会的コミュニケーションスキル」を「自己表現能力」、「情愛的コミュニケーションスキル」を「相互共感能力」と呼んでいますが、意味するところは同じです。

http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/log/2005/07/post_42a7.html
「相互共感能力」と「自己表現能力」を分けて考えていくと、「相互共感能力(=コミュニケーション能力)」が高いからといって、クラスで人気者になれるわけではないという事実に気付くはずです。

たとえば、「弱者への相互共感能力が高く、相手が傷つくことがわかるため、強い自己表現ができない」タイプの「優しい人」は、スクールカーストでは大抵Cランクです。逆に、「相手の気持ちをまったく考慮しないゆえに、自己表現能力が強い」タイプの人間は、Aランクであることが多い。僕としては、

前者:「コミュニケーション能力は高いが、自己表現能力は低い人間」
後者:「コミュニケーション能力は低いが、自己表現能力は高い人間」

として、区別する必要があると考えています。前者の代表は「優しいCランク」。後者の代表は「自己中なAランク」(キーワード中の『他者をモノのように扱う自己中』)です。

つづく

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*1 「コミュニケーション能力という名の政治力」に長けた企業の偉い方々は、絶対にそんなこと口にしませんけどね。

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2005年12月21日 (水)

コミュニケーション能力の分類4態

【コミュニケーション能力の分類4態】
前回の記事にを書いた後で、少し考えたこと。

http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2005/12/post_2611.html

僕は、「対男性コミュニケーション」と「対女性コミュニケーション」では、まったく別のノウハウが必要で、「異性とのコミュニケーションよりも、同性とのコミュニケーションのほうが簡単」ということはないと考えています。

コレ、
  • 男にとっての:対男性・対女性
  • 女にとっての:対男性・対女性
の4種類で、それぞれ違う能力が必要な気がするなぁ。もちろん、細かいこと言えば個人に合わせて無限にノウハウの組み合わせがあるんだろうけど、大雑把な分類として。

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2005年12月19日 (月)

偽悪的な男性コミュニティ、偽善的な女性コミュニティ(?)

【コミュニケーションの類型】
http://d.hatena.ne.jp/naozane/20051215#p5

  1. ホモソーシャルな社会と無縁、むしろ女性に承認されたことが何度もある。(フェミニストな男、ナンパ師)
  2. ホモソーシャルな社会で承認されたことがある。恋愛資本主義が嫌い。(体育会系)OR(幸せオタク・幸せ理系)
  3. ホモソーシャルな社会ですら承認されたことがない。むしろ迫害された。恋愛資本主義が憎い。(真性非モテ)→(真非コミュ)

コレ、「同性には嫌われるが、異性には好かれる」という"d"を追加したほうがいいかな、と思いました*1

僕は脱オタ以前、naozaneさんが言うところの「「コミュニケーション成功体験」そのものがないので、まるで展望を描けない」 "c" の状態だったんですが*2、ナンパという「対女性専用コミュニケーション訓練」を重ねた結果、「女性とコミュニケーションをとるほうが、男性とコミュニケーションをとるよりも楽」という状態になったからです(今でもそうです)。まぁ、元の性格的な面もあるんだと思いますが。


【男性コミュニティは『けなし合う文化』、女性コミュニティは『褒め合う文化』】
僕が、「女性と接するほうが楽」だと感じるのは、男性コミュニティが「けなし合って仲良くなる文化」であるのに対し、女性コミュニティは「褒め合って仲良くなる文化」である気がするからです。

ほら、男同士って、相手を馬鹿にするようなことこと言い合って、それをネタにして盛り上がったり、「悪口を言い合えるほど仲が良い」とか考えるような風潮ってあるじゃないですか。でもそのかわり、相手を「褒める」ことをほとんどしない。

女性はその逆で、「けなし合いコミュニケーション」をあんまり取りませんよね。そのかわり、友人同士で「褒め合う」ことをもの凄く多くやっているような。それこそありがたみがなくなるくらい、滅多やたらに。

僕は、男コミュニティの「けなし合う文化」がもの凄く苦手なんです。むしろ、相手を褒めて、褒めて、褒めて、褒め殺し合うくらいの勢いで、「褒め合いコミュニケーション」を取りたい。

これは僕の性格なんでしょうが、これにプラスして、ナンパの基本である「まずは相手を褒めて、良い気分にさせておけ!」という「褒めコミュニケーション」の訓練を、僕が「対男性コミュニケーション」を習得する前に行ったということも、影響しているんだと思います*3

まぁ女コミュニケーションの「褒めあう文化」にも、表向き良い顔してる分、裏では陰口・グループ間抗争・いじめ等が、男性よりも陰惨で残酷なモノになりがちだとか、嫌な面もあると思うんですけどね。「友人としてのつき合いやすさ」に限定して言えば、僕は「けなし合う文化」よりも「褒め合う文化」のほうが「好み」です。

……と、ここまで書いてふと気付いたんですが、
・男コミュニティ:偽悪的コミュニティ
・女コミュニティ:偽善的コミュニティ

と言えるような気が。結構的を射ていると思うのですが、どんなもんでしょう?

2005.12/22 0:30 追記
naozaneさんから、「『偽悪的』というより『露悪的』かな」という返信をいただきました。確かにこっちのほうが、感覚に沿っている感じがします。……しかしコレ、思いっきり「性悪説」的な考え方ですね(^-^;

【追記】
ちなみに僕は、「対男性コミュニケーション」と「対女性コミュニケーション」では、まったく別のノウハウが必要で、「異性とのコミュニケーションよりも、同性とのコミュニケーションのほうが簡単」ということはないと考えています。ただ、世の多くの人間は、異性よりも先に同性とのコミュニケーションを体験し、それゆえ対同性経験値のほうが対異性経験値よりも高いから、「異性間コミュニケーション>同性間コミュニケーション」と思い込んでいるだけで。

だから僕は、「同性とのコミュニケーションは苦手だが、異性とは問題なくコミュニケーションがとれる」という "d" の状態も、普通にあり得ると考えるわけです。

http://love3.2ch.net/test/read.cgi/gay/1131641547/194

会社で、女の人たちと仲良くしてると、他の男の人たちからあたし、
とんでもなく高いコミュニケーション能力を持ってると思われてたりする。
(ちなみにあたし戸籍上男)
でもその“能力”って、男の人たちとのコミュニケーションには逆効果なのよね。
(2ch同性愛板「タチとネコのジェンダー論(□ω□)★Part11」より)


【追記2】
書き終わってから気付いたんだけど、冒頭のnaozaneさんの "a" の定義は、「ホモソーシャルな社会と無縁、むしろ女性に承認されたことが何度もある」であって、「男にも女にも好かれる」ではないから、僕が言う "d" も含まれているのかも。

……とか書いていたら、naozaneさんの新しい記事で、「"a" は『同性に嫌われるが異性に好かれる系』」という記述が!

ということで、僕の勘違いでした。今回の文章は、僕がnaozaneさんの "a" を「男にも女にも好かれる」人種だと勘違いして書いたんだということで、よろしくお願いします。


【追記3】
ちなみにこんなこと書いてる僕ですが、べつに女性の友人が多いというわけではなく、少ない友人の中で、どっちが「気楽」に付き合えるかと考えると、個人的には「女性の友人」になるという程度の話です。(少しだけ続く

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*1 とはてブでも同じことを書いたところ、umetenさんから「世界はそれをサークルクラッシャーと呼ぶんだぜ」という素敵な突っ込みが!

*2 少なくとも自分でそう感じるくらいには、コミュニケーションに対して自信がなかった。

*3 ちなみにこの「とりあえず褒めとけ!」は、大概のコミュニケーション啓蒙本に載っている必殺技です。

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