2008年2月 7日 (木)

スクールカーストは、現代社会に浸透した「人格崇拝」と、そこから必然的に発生した「予防的やさしさ」が根っこになっていたんだよ!

ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書 74)
作者: 森真一
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日: 2008/01
メディア: 新書

【この本は、凄すぎる】
・こどものもうそうblog - 「適応」と『ほんとはこわい「やさしさ社会」

↑で、あまりにも面白そうに紹介されていたので読んでみた。
……[これはすごい]。ホントにメチャクチャ面白かった。ブログで紹介してくださっていた、米光一成氏に感謝。

著者の森真一氏は社会学が専攻だそうで、たぶん理論のベースは社会学なんだろうけど、身近な例を出し、学問的なことを一切意識しないで読める工夫がされている。とても読みやすくて分かりやすい。文章量も程ほどで、もの凄い遅読の僕でも半日で一気に読み終えることができた。これは是非とも、いろんな人に読んで欲しい一冊。


【『イエ崇拝』から『人格崇拝』へ】
この本によると、明治時代頃までの日本人は「イエ」を「聖なるもの」と考え、コレを守るために生きてきた。ところがその後の近代化によって「イエ」が解体。換わって戦時中は「国」が、戦後の高度経済成長期は「企業」が、守るべき「聖なるもの」として君臨。日本人は、自分よりもこれらを優先し、自我を抑えて生きてきた。

しかし不況期に入り、リストラ等企業の「裏切り」によって企業の「聖性」も解体。後に残ったのは個人の人格だけ。こうして現代社会は自分の他に守るべきものもなく、「(自分も含めた)個々人の人格」を「絶対不可侵な聖なるもの」として崇める社会になっているという(人格崇拝)。

その結果どういうことが起こっているかというと、個人間の過剰なお互いの尊重。個人個人が「絶対不可侵な聖なるもの」だから、「他人を傷つけること」は絶対悪とされ、社会的に最も許されない行動となる。


【人格崇拝から必然的に発生する『予防的やさしさ』】
でも、人格にはそれぞれ個性がある。笑いのツボも怒りのツボも、みんな違う。何が相手を喜ばせ、何が相手を怒らせるのか、厳密にいえばやってみなければ分からない。

たとえば電車で老人に席を譲るとき。「身体が弱って苦労しているのを察し、席まで譲ってもらえて嬉しい」という人もいれば、「老人だとバカにするな!」と傷つき、怒り出す人もいる。これは、実際に「席を譲る」という行動を起こしてみるまでは、わからないこと。

「他人を傷つけること」が絶対に許されないこととなった現代、ここで迂闊に老人に席を譲って傷つけることは、「悪いこと」だということになる。それがたとえ善意からの行動だったとしても。その結果、個人がとりうる「相手を傷つけない」ための最善の選択は「席をゆずらない」ことだということになる。それが「やさしさ」だということになる。

立ってあげようかなって思ったけど、最近のお年寄りって元気な人、多いじゃないですか。<中略>このオジイさんも年寄り扱いしたら気を悪くするかなぁ、なんて考えてたらァ、立つのやめた方がいいか、なんて考えてェ、寝たふりしちゃったの。<中略>寝たふりしたのはねぇ、私たちのやさしさ分かんない大人とかが、「この子、席も立たないで」みたいな目つきでジロジロみるからなのよ。
ほんとはこわい「やさしさ社会」 P.48

これが、この本で「予防的やさしさ」という言葉で書かれている現象だ。「予防的やさしさ」の根底には、「相手を傷つけてしまってからではもう遅い。相手を傷つける可能性をすべて未然に取り除き、予防しよう」という潔癖ともとれる思考が流れている。


【対等原則】
現代社会に浸透した「人格崇拝」は、「予防的やさしさ」から派生した、様々な現象を引き起こす。

そのひとつが、「対等原則」。個々人が「聖なるもの」であり崇拝の対象である現代、個人間に「上下関係」を持ち込むことは悪とされる。特に友人関係のように、社会的にも「対等」とされている関係ではなおさらだ。

でも、個人が完全に対等であることは、実際のところありえない。頭のよさ、美醜、才能、全てが違う。

でも、現代人には「個人間は対等」であり、かつ「絶対に相手を傷つけてはならない」という命題が与えられている。この命題を過剰に守ろうとした場合、個人の「才能」は、相手に劣等感を与え、傷つける要因になりかねない危険なものとなる。また、才能を持った優越感を感じる側も、「本来対等であるハズの友人に劣等感を与えてしまい、申し訳ない」と、心苦しい気持ちをもつようになる。

その結果、こんな女子高生が登場してくる。

その高校生は、友人とプリクラを撮るとき、わざと顔をゆがめて「ブス」に写るようにするそうです。友人が周囲のひとにプリクラをみせるとき、傷つくことがないように考えてそうするのだ、とテレビでは話していたそうです。
ほんとはこわい「やさしさ社会」 P.27

よくわからない行動だと思うかも知れないけど、たとえばこの女子高生(A)と一緒にプリクラを撮った友人(B)が、第3者(C)にこのプリクラを見せたときのことを考えてみよう。

このとき、「このAさんって人、超可愛いね~」などとCに言われたら、Bは「私はAよりブスなんだ」と傷つくかも知れない。コレを未然に防ぐためにAは「予防的やさしさ」を働かせ、わざと自分を「ブス」にしたのだと考えれば、この行動は理解できる。さらにこの行動には、A自身が「Bよりも美人」であることによって感じる「対等ではない」という負い目を防衛しているという面も同時に存在する。

この「対等原則」がどういうことを引き起こすかというと、「同質なグループの構成と、グループ間の断絶」。つまり、お互いがお互いの劣等感を刺激しないように、あるいは優越感を感じさせて気まずい思いをさせないように、同程度の「レベル」(容姿、学力、人気等)の人間で固まるようになる。

お互いが、相手を傷つけないための「予防的やさしさ」から。


【キャラ的人間関係】
「予防的やさしさ」のもうひとつの例が、「キャラ的人間関係」。

電車で老人に席に譲る例のように、「個性を尊重すること」と「相手を傷つけないこと」を完全に両立することは、非常に難しい。というより、不可能。

ただ、そうした状況の中でも、コミュニティの構成員がそれぞれ何らかの「キャラ」を担当し、予定調和的に振舞えば、「絶対不可侵な個性」からくるコミュニケーションの不確実性を軽減させることができる。

「ボケキャラ」、「突っ込みキャラ」、「天然キャラ」、「いじられキャラ」……「キャラ」には、様々な形態があるが、「役を割り振られ、それに応じた振る舞いをコミュニティから期待される」という意味ではどれも変わらない。各人が自分のキャラを好演している限りコミュニティの秩序は保たれ、誰も傷つかない楽園が維持される、というわけ。

でも、この楽園にも欠点はある。人間はいつだって同じような気分を保っていられるわけじゃない。「ボケキャラ」の人だって落ち込むことはあるし、「天然キャラ」だって真面目な話をしたいこともある。でも、「キャラ的人間関係」ではこういった逸脱は許されない。キャラの揺らぎはコミュニティの混乱を招き、「他人を傷つける」という、最悪の結果を呼び寄せかねないから。こうした自分の意思と関係なく「キャラ人格」を要請される人間関係は、とても疲れるものとなる。


「キャラが被る」という問題もある。「キャラ的人間関係」は「対等原則」を守ることにも都合が良い。「キャラ」は、「才能」のように上下のある「縦の関係」ではなく、平等な「横の関係」だとされている(建前上は)。「キャラ」の間に上下関係はなく、「対等原則」は揺るがない。既に「同質グループ」に分かれた後のコミュニティで「キャラ的人間関係」が構築されれば、それはますます磐石なものになる。

でも、「キャラが被る」人間が、グループ内に存在したら……?そこでは同キャラ間の「質」を巡った競争が展開され、縦の関係が構築されることになる。「対等原則」はもう守られない。「神聖不可侵」であるこの私の自尊心が傷つけられてしまう。このため、「キャラ的人間関係」の構成員は、グループメンバの入れ換わり等で「キャラが被る」ことを非常に恐れるようになる(そして、ますますグループの固定化は進んでいく)。


あと、この本ではあまり触れられていないけど、「汚れキャラ」の問題もある。さっき「キャラは横の関係だとされている」と書いたけど、「建前上は」と付け足したように、実際にはキャラ間の扱われ方には格差がある。

「いじられキャラ」は、自分の体調や精神状態に関係なく、芸人でもないのに常にコミュニティからいじられることを要求され、ストレスを溜め込みやすい。最初は「キャラいじり」だったものがいつの間にかエスカレートし、「いじめ」に発展することもあるだろう。*1

こういった危険があるため、「汚れキャラ」に落ちないよう、コミュニティの各構成員は激しいキャラ争奪戦を繰り広げることになる(高校デビュー!)。「キャラ」は、「建前上は」各人が自分の適正に合わせて選択した「自己責任」ということになっているから、一旦「汚れキャラ」に落ちたが最後、後から文句を言っても「自分が好きで選んだキャラなのに、なに言ってんの?」で済まされてしまう。

さらに、「汚れキャラ」本人にも、「コミュニティの秩序を乱してはいけない」という「予防的やさしさ」から来るプレッシャーがかかる。「キャラ換え」するにも罪悪感がのしかかる。また、コミュニティ側も秩序を維持するために「汚れキャラ」を必要としているため、「汚れキャラ」を簡単に手離すようなこともしない。

こうして一旦「汚れキャラ」に落ちたが最後、コミュニティが解散するまで「汚れキャラ」はコミュニティの重力に引かれ、汚れ役を引き受け続けることになる……。*2


【まんまスクールカーストじゃん!】
と、ここまで書いて、僕の文章を昔から読んでる人はすぐに連想すると思うんだけど……コレ、まんまスクールカーストの構図なんですよね。「スクールカースト」という名前が付けられていないだけで。

分からない人は、こちらを参照。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%AF%A1%BC%A5%EB%A5%AB%A1%BC%A5%B9%A5%C8

昔僕が↑で書いたスクールカーストの文脈で言えば、「対等原則」から来るグループ分断はABCのグループ分けだし、「キャラ的人間関係」は「キャラ強制圧力」。何も付け足すことがないくらいにもう、僕が実際に学生時代に体験してきたスクールカーストそのまんま。

その理由を現代社会に浸透した「人格崇拝」やそこから産まれる「予防的やさしさ」に求めるというのはびっくりしたけど、現代社会が「個人の人格」を「絶対不可侵な聖なるもの」とみなしているというのは、確かにそういう感じがする。

ここまでこの本の内容をスクールカーストの観点から要約して書いたけど、実際には各項はもっと密接に絡まりあっているし、省略した部分もたくさんある。

  • 「キャラ的人間関係」が「お笑いの世界」を模したものになっている背景には、「人格崇拝」から来る「自分の人生を最大現に活かさないと損!」という「楽しさ至上主義」がある
  • なぜ「人格崇拝」がここまでの力を持つのかといえば、「公式ルール」(例:道路交通法)と「非公式ルール」(例:空気嫁やマナーのような、暗黙のルール)の強制力の違いがある。非公式ルールのほうが強制力が大きい。*3
  • 人格を「神聖なもの」として他者に扱ってもらうためには、相応の「メッセージ」を発する必要があり、社会もそれを非公式ルールとしてそれを求めている。
  • 現代人は「コミュニケーション能力」やら「他者への想像力」やらが「低下」しているとよく言われるが、実際にはそうした能力への期待がかつてない程にに高まっており、求められる水準が上がったと考えるのが正しい。

などなど。

まぁなんにしろ、スクールカースト周辺に関心を持っている人には、いろんな気付きがある一冊だと思います。超おススメ。

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*1 小説「りはめより100倍恐ろしい」は、「いじられキャラ」へのいじりがエスカレートして「いじめ」に発展する様をリアリティある描写で描いている(参考)。

*2 「汚れキャラ」の問題については、「白田秀彰の「インターネットの法と慣習」 第20回 意思主義とネット人格・キャラ選択時代」に興味深い考察が載っていたんだけど、残念ながら今は読めなくなっている(はてぶ)。

*3 「殺人」なんかは、「公式ルール」でも「非公式ルール」でも禁止されてるから、強制力最強っぽい。

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2006年4月 8日 (土)

「りはめより100倍恐ろしい」を読んだら、スクールカーストに関する思考の断片が音を立てて組みあがったから一気に書くよ!


りはめより100倍恐ろしい


【もの凄いリアリティ】
野ブタ。をプロデュース」に続く、スクールカースト小説。「いじめっ子キャラ」のAランクから「いじられキャラ」認定されることを回避するために、Bランクによる血で血を洗う階級闘争が、高校のバスケ部を舞台に繰り広げられる。

AがCを人気者に仕立て上げるという、ありえない展開の「野ブタ」よりも、遥かに強いリアリティを感じた。大袈裟でなく、これはノンフィクションだ。この作品にリアルさを感じないという人間は、よっぽど幸せな学生生活を送っていたんだろう*1。心の底から羨ましい。皮肉じゃなく、その幸運を神に感謝し、大切にしてください。

作者は17歳の現役高校生。最近この手の作品が多いけど、これはスクールカーストが最近になって発生するようになった現象だということなのか、書き手の若年化等の外部要因から、ようやく表舞台に出てくるようになったということなのか*2

作者の年齢から考えて、たぶんこの作品は、作者自身の体験がベースになっているんだろう。僕が高校生だったのはもう10年も前の話だけど、中学・高校の階級争いの激しさは、昔も今もまったく変わっていないんだなと、絶望的になった。

たぶん、10年先も変わらない。僕の子供が中高生になる時代も変わらない。2ch人生相談板のこのスレでは、現役中高生がスクールカーストについて語り合っているんだけど、ここを見ていると、そのことがよくわかる。

僕は、自分の子供には絶対にスクールカーストでつらい思いをして欲しくないから、カースト上位を狙えるような人間に育てようと考えているんだけど*3、この本はいい参考書になると思った。是非、子供に読ませてやりたい。時期は、小学校中学年が終わる頃がいいだろう。スクールカーストは、小学校高学年あたりからじわじわと発生しはじめ、中学で一気に本格化するのが一般的だから。

この小説の主人公は、中学で「いじられキャラ」であり、二度とその「地獄」を味わいたくないという思いから、高校ではスケープゴートを作ってまで「いじられキャラ」を避けようとする。そして僕はいま、大人になってから自分の子供を使い、主人公と同じことをしようとしている。この主人公の姿が、いまの僕と重なって仕方がない。

弱者は、自分が弱者である苦しみを知っているがゆえに、その苦しみから逃れるためならなんだってする。どんな残酷な手段も厭わない。彼等はスケープゴートにされる人間の苦しみを、された人間なら心底理解できるハズなのに、皮肉なもんだ。


【スクールカーストを軽減するためには】

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50317059.html
イジメたものが簡単に社会の外に出て行けるような社会では、イジメはそれ以上発展しない。イジメられる不快感を、「社会にもういられくなる」不安が上回った時、イジメられっ子はそこに残る。そしてイジメは拡大再生産される。

そう。イジメを発展させるのは、実は社会に対する依存心なのだ。ここで言う「社会」とは、小は家族から大は国家まで、人間の集まり全てを指す。いじめが最も横行する場所が刑務所であり、その次が学校だということもこれで説明がつく。

よって、イジメをなくすには、社会の寛容性を高めるか、社会の流動性を高めるかどちらかを行えばいい。社会の寛容性を高めるということは、「いじめに参加しなくてもいじめの対象にならない」ということにつながり、社会の流動性を高めることは「いじめられてもすぐ別の社会に移転できる」ことにつながる。


ダンさんが指摘するように、スクールカーストやいじめが際限なく拡大する原因は、逃げ場のない閉鎖的な空間と、同じく閉鎖的な人間関係にある。だから僕が昔書いたように、進学年数を「6・3・3」ではなく、「4・2・2・2・2」に制度変更し、人間関係のリセット(=流動性)を促進し、デビューの機会を増やすのは、とても効果的なハズなんだ。

それなのに最近は、これとは真逆を行く小中一貫校の動きなども出てきていて、もういい加減にしろと言いたい。そりゃあ一貫教育は、学歴を安定させるには都合がいいだろうし、学習効率も良さそうに感じる。大切なお客さんである、生徒の親からの受けは抜群だ。少子化による土地余り等による無駄の解消という側面もあるんだろう。

でも、この環境では「いじめ」や「いじり」がますます激しくなることは、間違いない。

首尾よくAランクにのし上がれた人間はいい。一旦Aランクに成り上がった者にとって、「再デビュー」の必要がないこの環境は、天国だろう。でもその天国は、数多のCランクの犠牲により成り立っている。Cランクに固定させられた人間に、劣悪な人間関係を長期的に強いるこの制度は、「スクールカースト弱者」にとっては本当に最悪だ。


【携帯の普及によりスクールカーストは軽減されるのか】
流動性といえば、「最近の中高生は、携帯等で外部にも容易にネットワークを張れるから、スクールカーストはかつてより軽減されている」という意見がある。

http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20051127/p1
実際日本の学校文化をリサーチしていると、むかしよりも校内ヒエラルキー=人気格差は、(学校によりかなり違いはあるものの*1)全般的に弱まっているような気がするんだよね。

なぜかというと、それは学生たちが学校だけの関係性に留まらなくなっているからで、その背景には携帯電話の普及がある。ジモティやバイト先など学校外の関係が力を増すこによって、「学校」とか「クラス」という単位は相対的に力を弱めている。ただしその一方で、それぞれの仲間集団の関係性には非常に敏感になっているんだけどね。

でも僕は、この意見に懐疑的だ。確かにそういう一面はあるだろう。学校でダメでも塾がある、サークルがある、ネットがある。そういう様々な環境に容易に身をおけるようになることは、スクールカーストで受ける精神的ダメージを軽減するのに非常に有効だ。実際、↓のような例もあるらしい。これはとても素晴らしいことだと思う。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://life7.2ch.net/test/read.cgi
/jinsei/1142045008/315

やっぱり3軍に居るおれなんかは1軍にいじられて女子から嘲笑されることもまあたまにあってイメージ悪いよね?
一部の女子とは話すけど今のクラスで知り合ったことはほとんどないし。
・・で、ネットでの恋愛に逃げた俺は負け組みかな。。。ネットで知り合った子なら↑見たいな事知らないから、普通にかわいいことデートとかできるし・・・
(dat落ち防止のため、はてぶにリンク)

でも、携帯の持つ特性には、もうひとつの側面がある。「仲間意識強化機能」だ*4。携帯メールで、ネットの身内掲示板で、mixiで。仲間うちでスケープゴートの役割を持つ「いじられキャラ」をいじり、貶める。そうすることにより、Aランク内では「いじられキャラ」を「いじる」ことに対する意識が「当然のもの」として強化され、「いじり」がますます過激になるのだ。

そう考えると、携帯やネットの普及はスクールカーストからの「逃げ場」を提供することにはなっても、スクールカーストそのものを軽減させることには繋がらなそうだ。むしろ、強化させる可能性が強いと僕は考えている。

それに、外部に逃げ場を作っても、学生が一番多くの時間を過ごさなくてはならない場所は結局学校だ。ここが地獄だというのは、学生にとって本当につらいことだろう。

ネットを廻っていると、「スクールカーストなんて、所詮学校という小さい世界だけの話だよ」などという意見をよく見かける。だがこれは、子供にとってその「学校という小さな世界」がどれ程重要な場所なのかを全く考えていない、想像力に欠けた他人行儀な意見だと思う。ふざけるな。高校中退しろとでもいうのか?俺のように?

スクールカーストは、いまその環境で生きざるを得ない中高生にとって、そんな軽々しい問題じゃない。


【以下自分語り】

http://www.nextftp.com/140014daiquiri/html_side/hpfiles
/otaken/case02_1.htm

友人がいないことにコンプレックスを持っていた私は、クラスのリーダー的存在のグループに、強い憧れを持っていた。私も、彼等と友人になりたかった。

しかし、友人がほとんどいない状態で小学生時代を過ごした私は、その資質に乏しかった。そんな私が唯一彼等と接点を持つ方法は、自分が道化になることだった。私は道化を演じることで、クラスの人気者になった。この立場は強いストレスを伴うものだったが、友人がいないよりは、マシだった。

かつて僕は、自分の過去をこういうふうに書いた。このとき僕は、中学時代の自分を「いじめられキャラ」だと思っていたんだけど、実は「いじられキャラ」だったんだなと、「りはめ」を読んで思った(でも小学時代はいじめられだった)。

同級生全員に同じ質問をしたとする。羽柴典孝は好きor嫌い?
賭けたっていい。全員が揃って答える。大好き、ウケるから。と。
そんなに好かれているのに、何故こんな悲しい思いをしなきゃいけない?
(『「りはめより100倍恐ろしい」』P.37)

俺も中学時代同じ立場だったから、よくわかる。卒業アルバムの「クラスメイトなんでもベスト5」みたいなコーナーで、全部門ランク入りを果たしたのは俺だけだった。

すげーよ、!俺!すげー人気者だよ!!

でもこれは、俺がクラスのマスコット的な存在で、「Masaoに入れとけば波風立たないし、それらしくて外部ウケもいい」人間だったというだけの話。典型的いじられキャラ。

その卒アル?あぁ、中学時代のことなんて思い出したくもないから、速攻でごみ箱に捨てたよ。

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*1 「それなんてさわやか3組?」(カルメン伊藤氏風

*2 僕は後者だと思っている

*3 うちの親父は学歴コンプレックスが酷かったから、僕には良い学校に行って欲しがっていた(無理だった)。僕はスクールカーストコンプレックスがあるから、子供にカースト上位に君臨して欲しいと考える。親ってこういうものなのか。

*4 これはTrickFishの人も指摘している。

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2006年3月17日 (金)

愛と青春と幻想のスクールカーストMAP

【スクールカーストMAP Ver.2006_0.01】
前回の記事で考えた、「趣味による差異化ゲーム」(他者承認)と「楽しむこと」(自己満足)は別物という概念。この概念でスクールカーストや脱オタを分析してみたら面白いことになるんじゃないかと思ったので、早速実行。

で、完成したのが↓のマップ(クリックで拡大)。


スクールカーストMAP


以下の文章で、このマップを解説。ネタ色強め。


【勝ち組 (趣味:ファッション・スポーツ等、モテ系)】
趣味の差異化ゲームで勝っていることで他者承認と優越感を得られるうえ、趣味をベタに楽しむこともできている、幸せかつオールマイティな羨ましい人達。スクールカーストAランク上位がこれに当たる。

特に何も考えず、好きなことがたまたまモテ系だった「天然組」と、デビュー・脱オタ等を駆使し、狙ってこの階層についた「人工組」が存在する。天然組の人は、親と神と社会に感謝しよう。

自己満足・他者承認共に満たされているので、「過剰適応者」とは異なり、わざわざ他者を攻撃して安心を得るような真似はしない。すべての「脱オタ」「デビュー」といった行動は、最終的にこの階層の住人なることを目標に行われる「上がり」の階層。そのため、この階層から他へ移行する矢印は存在しない。


【オタク (趣味:アニメ・ゲーム等、オタク系)】
趣味を楽しんでいるが、その趣味が差異化ゲームでは社会的低位置に置かれているため、自己満足はできても他者承認は得られない人達。スクールカーストでは、カースト圏外の別枠「オタク系」として処理されることが多い。階級的には、Cランクより下。

他者承認欲求が低く、他人にバカにされても劣等感を感じない者にとっては非常に居心地が良いが、そこまで「強くない」人間にとってはつらい階層。

ゆえにこの階層に所属するにも関わらず他者承認欲求が強い者は、「脱オタ」して差異化ゲームでの勝利を目指すようになる(矢印1)。しかし、この道は非常にけわしい茨の道であり、脱オタ失敗して「過剰適応者」(矢印2)「地味系」(矢印3)に移行してしまう者が後を絶たない。

僕の前回の記事天馬さんのブログでよく登場する「脱オタ説教坊」は、脱オタ失敗により、オタクから過剰適応者へ移行した者達のことである(前回の記事で僕はこれを、「フォースの暗黒面に堕ちる」と表現した)。

また、多くの脱オタ志望者にとって、最初から差異化ゲームで「上」の趣味を楽しむことは難しく、評価を得るまでに時間がかかるため、一時的に「地味系」へ移行する人間も存在する。


【過剰適応者 (趣味:ファッション・スポーツ等、モテ系)】
差異化ゲームで有利な趣味を持っているが、それはあくまでステータスのためであり、趣味を楽しめていない人達。スクールカーストでいうと、Aランク下位及びBランクがここにマッピングされる。

自己満足より、他者評価を優先する。そのため差異化ゲームに人一倍敏感で、自分が下層に落ちることを恐れていると同時に、「オタク」「地味系」に対する優越感も強い。

努力の甲斐あって他者評価は高いが、「楽しむこと」による自己満足が不足しているため、「下層のくせに楽しんでいる」オタクに対し「のび太のくせに生意気だ!」理論が発動。そのため、過剰適応者とオタクの間では抗争が絶えない。

「自分の気持ちはどうでもいい!ステータスこそが、私の生きがい!」という、他者承認欲求ばかり強い人間には居心地の良い階層かも知れないが、ステータス競争のためだけに楽しくないことをやり続けるのはつらいと思うので、少しは楽しむことも考えたら?と個人的には言いたくなる。

ステータスのために始めた趣味がだんだん面白くなり、いつの間にか自然と「勝ち組」に「上がる」人間も多いが(矢印4)、いつまで経っても趣味を楽しめない者も。後者の人間で差異化ゲームに疲れた者の中には、密かに楽しんでいたオタク趣味をカミングアウトしたり(矢印5)、競争のない「地味系」へと移行する者(矢印6)も存在する。


【地味系 (趣味:特になし)】
これといった趣味を持たず、目立った特徴がない人達。スクールカーストCランクの人間がこの階層に属する。

趣味の差異化ゲームでは、プラス要因もないがマイナス要因もないため、オタクほど「下」に見られているわけではないが、他者承認が得られるほど地位が高いわけでもなく、かといって「オタク」ほど自己満足を得られるわけでもないという、「すべてが低め」な階層。

とはいえ、自己満足欲求・他者承認欲求が共に低く、「終わりなき日常」を淡々と生きられる人間にとっては、非常に居心地が良い階層であろう。

この階層で他者承認に不満を感じる者は「デビュー」して差異化ゲームでの勝利を目指し(矢印7)、社会性を無視してでもより強い自己満足を求める者は、「動物化」してオタクになる(矢印8)。デビューの際も脱オタの場合同様、気をつけないとフォースの暗黒面に取り込まれ、「デビュー失敗者」になってしまうので、細心の注意が必要(矢印9)。

デビュー失敗者は非常に残酷であり、中学までの親友を、高校でカーストが変わったという理由だけで迷惑がり、容赦なく切り捨てたりする。人間って、友情ってなんだろうと、思わず考えさせられる瞬間である。

特に熱中する対象もないのに自分より「上」に居るので、オタクの中にはこの層を嫌う人間も存在する。


【自分が『幸せ』を感じれるポジションにいることが『勝ち組』】
……というわけで、「他者評価」「自己満足」を軸に、スクールカーストMAPを試しに作成してみましたが……うーん、我ながらこじつけ感が強い場所が結構ある気がする。それに今回の書き方だと、「みんな『勝ち組』を目指さないと幸せになれないのかよ!」と勘違いされてしまいそうな予感も*1

でもね、そんなことはないと思うんですよ。大事なのは、自分の中の「他者承認欲求」と「自己満足欲求」を、それぞれ満たしてやること。そして、それぞれの欲求の強さは、人によって違います。

もしあなたが今、「他者承認」が足りなくて苦しんでいるのであれば、差異化ゲームで有利なステータスの高い趣味を「楽しめなくても」選んでみるべきだし、逆に差異化ゲームに疲れ果て、「自己満足」が不足しているのであれば、他人にどう思われようと自分が好きなことをやればいい。

この「他者承認」と「自己満足」を、「自分の求めるバランスで」補給できるポイントを探すのが、重要なんです。それがあなたにとっての「勝ち組」であり、一番幸福なポジションになるでしょう。

もしあなたが、とても欲望が低い人で、「地味系」にいても特に不満を感じないというのであれば、それはとても幸せなことだと思います。欲望が強い人間は、それを満たして幸せになるために、過剰な「競争」や「努力」を強いられてしまいますから。MAPの下に掲載した、「表2」「表3」を参考に、「自分にとっての勝ち」を探してほしいものです。

……とはいえ、自分が好きなことやってて、しかもそれで「他者承認」まで獲得できてしまう「勝ち組」の方は、やっぱりズルイ!と思いますけど(苦笑)

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*1 ま、ここらへんは「ネタ」ってことでひとつ。

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2006年1月27日 (金)

クラスメートにとっての「良い子」と、親・教師にとっての「良い子」は違う

【服飾その他のモノに金を注ぎ込むということは、「良い子」であろうとすることなの?】

・Leiermann氏の「ファッションの搾取の構造」エントリに「待った」をかける
http://d.hatena.ne.jp/makinamikonbu/20060126/p1

親の言うことに従わなくても、親や学校教職員にとっての「イイ子」でなくても、「自分は大丈夫だ」という確信を強めていくようになれるのだと思います。

・「モデル事件」の真の敵は?
http://d.hatena.ne.jp/Leiermann/20060126/p2

当初、服飾その他のモノに金を注ぎ込むということはむしろ「良い子」であろうとすることだと思えた。もしもそうしなければ、モノを媒介にした人間関係の中で仲間外れにされてしまうからだ。そして、親や教師は多くの場合仲間外れにされた子供の味方ではない。明確な「いじめ」が発生しなかったとしても、自然に過ごしていただけで一々親や教師から雷を落とされていたのでは、どうして自尊心を持てるだろうか。

Leiermannさんの記事の本題とは外れたトコロを突っ込むことになってしまうんですが、引用部分で引っかかる点があったので、絡ませてもらいますね。

この文章を読んで僕は、「誰にとっての良い子であろうとするのか?」という視点が、Leiermannさんには抜けているなぁ、と感じました。


【誰にとっての「良い子」なのか】
学校という場では大まかに言って、
・教師&親
・クラスメート
というふたつの勢力・価値観があり、このふたつは対立しています。

この、どちらか一方に対して「良い子」でいようとすると、同じ行動がもう一方の勢力に対しては「悪い子」という評価で捉えられてしまう。makinamikonbuさんが、
「親や学校教職員にとっての『イイ子』」
という表現を使っているのは、ここらへんを考慮してのことだと思います。

で、「ファッション」というのは基本的に「クラスメート側」に対してプラスに働く価値観なんですね。だからこそ、「ファッション」は「親・教師側」への「反抗」のアイテムとして利用でき、同時に「クラスメート側」への「アピール・同化」にも利用できる*1

Leiermannさんの

当初、服飾その他のモノに金を注ぎ込むということはむしろ「良い子」であろうとすることだと思えた。もしもそうしなければ、モノを媒介にした人間関係の中で仲間外れにされてしまうからだ。

という文章は、「クラスメート側に対して良い子であろうとする」話なんです。

確かにLeiermannさんがおっしゃるような「モノに対する同調圧力」はあります。しかしそれは、「クラスメート」から発せられているのであって、「教師・親」から発せられているわけではない。むしろ「教師・親」からは、「ファッションなんかに構うと不良になる。校則を守って制服を着ろ」といった、逆ベクトルの同調圧力がかけられているハズです。

実際、僕はファッションや流行に無頓着だったので、クラスメートからは疎外されがちでしたが、(中学までは)勉強はできたので、親や教師にはメチャクチャご贔屓にされてましたし。僕は、「親・教師」にとっては「良い子」でしたが、「クラスメート」にとっては「悪い子」だったわけです*2

ちなみにスクールカーストAランク入りの条件が「容姿・話術・スポーツ」であり、「勉強」が入っていないのは、ここらへんの理由によります。スクールカーストは、クラスメート側の価値観で構成されており、教師・親からの評価が高い「勉強ができる」人間は、この価値観の中ではむしろ「悪い子」に認定されてしまうからです。


【セルフ突っ込み その1】
……ここまで書いて思ったんだけど、「親・教師」と「クラスメート」の価値観は完全に対立しているわけではなく、「スポーツ」のように双方に対してプラスの価値を持つ価値観もあるよなぁ。あと、「オタク」は「親・教師」にはなんの影響もなさそうだけど、「クラスメート」にはマイナスの影響がる*3。そう考えていくと、

対親・教師対クラスメート属性例
プラスプラススポーツ
プラスマイナス勉強
プラス影響なし???
マイナスプラス流行のファッション・不良
マイナスマイナスゴスロリファッション
マイナス影響なし???
影響なしプラス話術
(両方にプラスっぽいけど、どっちかというと)
影響なしマイナスオタク
影響なし影響なし???

といった区分が存在し、それぞれの属性から成るパラメータのバランスにより、スクールカーストが決定されていると考えたほうが適切なのかも知れない。

こういう風に、それぞれの属性をカテゴリ分けしていくと面白そう。スクールカーストシミュレーションゲームが作れるかも。ゲームシステムは、ときメモかガンパレードマーチのパクリで……って、不謹慎か(汗)。


【セルフ突っ込み その2】
なお、僕がここまで書いてきたことには、環境差があるようです。例えば天馬さんなどは、私立の進学中学に通っていたそうですが、そこでは「勉強ができる人間」が、スクールカーストでも上位認定されていたとか*4

とはいえ、
・「親・教師」VS「クラスメート」の価値観の対立
・ファッション=クラスメート側の価値観
といった構図は、大多数の学校で普通に見られる現象なのではないかな、と個人的には考えています。

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*1 ゴスロリ等、両者に対してマイナスに働きそうな「ニッチ価値観的ファッション」もあります。ゆえにこういった格好をすることは、「世の中すべてに対する反抗」であるという解釈も可能です。

*2 だから僕はこれに続く、「親や教師は多くの場合仲間外れにされた子供の味方ではない」という文章には、(?)と感じました。

*3 オタク仲間は除く。

*4 この話を聞いたとき、天馬さんから「受験脳」のような発想が出てくることに対し、妙に納得しました。

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