2006年12月28日 (木)

「抑圧」を「弱者貶め型」と「強さ強要型」に分けてみる。そして後者に対して弱者は、弱者であることに開き直るべきだと思う

【イイネ!(・∀・)】
イケメンは女性に優しい。(非モテにまつわる抑圧の話)
女性専用車両に乗れない“恋愛強者”たち

このへんの記事を読んで。どちらもいいトコ突いている良記事だと思う。ナツさんの記事はパッと見、「現代はむしろ女性優遇社会じゃね?」というParis713さんの意見への反論のようにも見えるけど、論旨は↓の部分だと読み取った。

http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2006/1227210145.php
こうなると、男性と女性、どちらの抑圧が強いかというのは水掛け論にしかならない。性別や年齢や個人の実感によって様々という話になって終わりだろう。

一人勝ちしているのは抑圧など歯牙にもかけないモテ女とモテ男だけであり、それ以外の男女は、多かれ少なかれレッテル貼りや、それによるプレッシャーに苦しんで生きていると言える。

性的視線に晒されて抑圧された女性は、性的視線に晒されなくなることによっても抑圧される。

「強者である」ことと、「強者であると見なされる」ことは違う。


激しく同意。ジェンダー学は、そもそも「フェミニズム」「メンズリブ」と分れていることがおかしくて、「ジェンダリズム」とかに改名して、男女関係なくジェンダー規範の圧力を問題にすべきだと思うのですよ、僕は*1。「男VS女」じゃなくて、「規範適応者VS非(不)規範適応者」。前も同じこと書いたけど。


【この図式で『主張』を行うことの困難】
でも、実際この「規範適応者VS非(不)規範適応者」の図式で「主張」を行おうとすると、色々厄介な問題が生まれてくるとも思うのですよ。そもそも「社会規範」自体がある種の「正義」として働いているので、「非(不)規範適応者」の立場からモノを言うということに正当性を持たせることが、まず難しい。

僕が思うに、「抑圧」には社会制度や慣習の影響で弱者に貶められる「弱者貶め型」と、「強者で当然」という「強さ強要型」のふたつのタイプがあるんじゃないかと。

このうち前者を主張するのは「権利拡大を訴える」というポジティブな主張になるから、比較的共感も得やすい。でも後者は「権利を行使したくない」もっと強く言えば「社会に沿えない/沿いたくない」という、ネガティブな主張になってしまう。これが規範を正義とする側からは「甘え」と取られる。

こういった理由から、これまでジェンダーの活動は、専ら前者のポジティブな側面を全面に出して活動してきているように見える。たとえばフェミニズム的な「女性にも参政権を」「女性にも社会進出を」や、メンズリブ的な「主夫になってもいいじゃないか」は、ポジティブな主張といえる。まとめると、↓みたいな感じ。

タイプ
抑圧内容
主張の方向性
弱者貶め型・女性には参政権がない
・男性が主夫をすることに対する偏見
~したい
ポジティブ
強者強要型・男/女は ~して、できて当然~したくない/できない
ネガティブ←甘え!

でも今回言われている「強者と見なされているゆえ、それに乗れないことに対する抑圧」は、「社会規範(正義)」の面からもの凄く批判され易い。「強者強要型」の主張をしたフェミニストに対して「モテないブス女の僻みだ」とか、メンズリブの人に対して「会社に居場所がない連中が逃げてる」とかいう批判は、簡単にできるだろう。たとえば↓のotsuneさんの発言は、その典型といえる*2
http://b.hatena.ne.jp/entry/ http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20061228/1167235936
otsune 「女は年取ると恋愛弱者」って大雑把だな。単にそう言う事言っている人が「私が恋愛弱者なのは歳をとったからだ」と責任転嫁しているだけじゃね

そしてこれまでジェンダー論をやってきた人達は、こういった言説に対抗するために、あれこれ理論武装してきたんじゃないかと感じられる。

でも、「強さ強要」タイプの抑圧に対抗するためには、このやり方じゃぁダメなんじゃないか。むしろ、「私はブスなので、恋愛強者になれません。でも、それがなにか?」とか、「俺はダメ社員で仕事ができないので、金も地位もありません。でも、それがなにか?」とか、積極的に弱者であることを開き直る方向に行くべきなんじゃないかと思う。

だって、「男らしさ規範」にしろ「女らしさ規範」にしろ、屁とも思わず乗りこなしていく男女はいるわけで、そういう人間に比べたら、事実圧倒的に「負けてて弱い」わけですよ、フェミニストにしろメンズリブな人にしろ。「社会規範」をものさしに計った場合。

だからそこはもう、負けを認めちゃったほうがいい。自分の弱さを正当化するために、わざわざポジティブな理論を構築する必要なんてない。

そんな不利なルールのクソゲー、俺はプレイする気はありません。正当性なんざクソ食らえ。「負けたけど、だから何?」これですよ。「弱くていいじゃないか。ダメ人間だもの」。

最近の弱者男性(非モテ)の中には、革命という反社会な方向性に行く人もいるようですが、僕はこの「脱社会路線」でいきたいですね。ラクチンだし。

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*1 ……てなことを別館でも書いてたら、クィアがそれだよと指摘を受けました。ありがとうございます。

*2 【追記 2006.12/29 AM 10:00】 コメント欄でotsuneさんから、この引用は誤読だとの指摘がありました。この文脈で僕は、otsuneさんの発言を「それは甘えだ」という高齢女性への批判として解釈していますが、otsuneさんの意図は「高齢女性にも恋愛強者はいるよ。高齢女性=恋愛弱者だというのはMasaoの思い込みだよ」というMasaoへの指摘である、とのことです。30歳やマダム層のほうが恋愛概念において好印象な文化を持つところもある、と。この意図の発言をここで引用することはふさわしくないので訂正します。詳しくは、コメント欄をご覧ください

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2006年6月16日 (金)

恋人選びは『好意』ではなく『セックス』で決まる。ゆえにすべての恋愛論は、『愛情論』ではなく『欲望論』である。

【男→女の場合に関しては、『愛せよ、されば愛されん』は大嘘!】

モテ非モテと言うけれど
実践的愛され研究その1

このへんの記事にある、「愛せよ、されば愛されん」「見返りを求めない好意を与えれば、好意が返ってきやすい」という意見。コレ、大概のケースではそのとおりだと思うんですが、好意のベクトルが「男→女」の場合は例外だと思うんですよね。

……というのも、女性には「妊娠」という「男性の好意を受け入れるリスク」があるからです。異性の好意を受け入れるということは、その異性とセックスする可能性が高まるということです。これは女性にとって、「妊娠させられる可能性が高まること」とイコールなのです。

ゆえに女性は、男性の好意に対して簡単に好意を返すわけにはいかない。慎重に「好意を返して構わない男性」を選別する必要がある。これは恐らく生物学的に女性の本能に組み込まれている機能で、「嫌いな男」からの恋愛的アプローチに対し、女性はそれこそ心の底から生理的嫌悪感が沸いてくるのです。

逆に男性はこのへんのリスクが低いので、女性から好意を抱かれると、簡単にコロッとまいってしまう*1

  • 「生理的に受け付けない」という言葉を使うのは女性ばかり。
  • 男のほうが非モテになりやすい。
  • 男の非モテは誰からも愛されないことを嘆くが、女の非モテは嫌いな人間にしか愛されないことを嘆く傾向がある。
  • ストーカーには男が多い。
これらの傾向は、すべてこの男女の非対称性で説明できます。女性にとっては、「誰からも好かれないこと」よりも、むしろ「嫌いな男性に好かれること」のほうが恐怖であり、嫌悪感の対象なのかも知れません。


【友達は好意で決まる。恋人はセックスで決まる】
「恋愛」には、ほぼ例外なく「セックス」が絡んでくるので、女性の恋人選びには、これまで書いたような「望まない妊娠」の恐怖が常に付きまとってきます。

ゆえに女性にとって、「友達の基準」と「恋人の基準」はまったく異なります。友達は単純に「この人が好きか嫌いか」で決まりますが、恋人は「この人とセックスしたいか(あるいはしてもいいか)」が決定的に重要になってくるのです。

彼女:
「男の人ってたまに、凄い『男の眼』でセックスの対象として女の人のこと見てくるのね。友達だと思ってる人にああいう眼で見られると、ダメ。気持ち悪い。生理的に受け付けない。だから、セックスの対象として私を見ない人となら、友達になれるよ」

俺:
「でも俺、○○(彼女の名前)のこと『男の眼』で見てるけどなぁ」

彼女:
「Masaoは彼氏だから良いの!(はーと)」

これは、「友達にできる男とはどんな男か?」という話題になったときの僕と彼女の会話ですが、この会話がまさに、女性にとっての「友達」と「恋人」の決定的な違いを、雄弁に物語っています。女性にとって、「好意はあるけど、セックスはしたくない異性(=友達)」と「好意があり、セックスもしたい異性(=恋人)」の間には、マリアナ海溝よりも深い溝がよこたわっているということです。

電波男で主張された「池鶴関係」*2も、「友達基準」しか満たしていない男性が、「恋人」にランクアップしようとしたがゆえに起きる悲劇です。現代の男女関係では、「あなたと恋人になりたい」という表明は、「あなたとセックスしたい」という表明と、まったく同じことですから。そして女性は、「妊娠」というリスクがあるために「生理的に受け付けない人間」とは絶対にセックスできず、それゆえ恋人になれない生き物なのです。


【『愛』と『恋愛』は違う】
これまで書いてきたように、「セックス」というファクターがある限り、恋人が「好意の有無」という単一の評価軸だけで決まることは、決してあり得ません。必ずなんらかの「欲望」が恋人選びに絡んできます。

これは、「妊娠」というリスクを持つゆえに、相手の選別を慎重に行う必要のある女性に特に強い傾向ですが、男性も多かれ少なかれ同じ傾向を持っています。

つまり、「愛」と「恋愛」は違うということです。もし「見返りを求めない好意」を「愛」と呼ぶのであれば、「恋愛」はそれとは対極に位置した営みだといえるでしょう。これは、「恋愛」が「セックス」を孕んだ概念である限り、逃れられない宿命です。「恋愛」において、「無償の愛」など存在しないのです。

ゆえにすべての恋愛論は、「愛」ではなくむしろ「欲望」に関する議論と親和性が高い*3。これは、非モテ論も例外ではありません。

非モテを語る者に対し「愛せよ、さらば愛されん」と「愛」について説くことは、論点がズレています。なぜなら彼・彼女等は、「愛」について嘆いているのではなく、「欲望」について嘆いているのですから。

「非モテ論を含んだすべての恋愛論は、『愛情論』ではなく『欲望論』である」

これは、すべての論者が恋愛論を語るうえで、覚えておくべき事実でしょう。そして非モテ論とは、「欲望されない男女」あるいは「望まない欲望のされ方をする男女」による恋愛論なのです*4

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*1 女性からの好意を「迷惑」「キモい」と感じる男性は少ない。もちろん僕も含めて(参照)。

*2 「池鶴関係」についてわからない人は、ここの id:nisoku2 さんのコメントを参照。

*3 ちなみに僕が考える「欲望系恋愛論ブログ」の代表は、 id:noon75 さんの「セックスなんてくそくらえ」です。

*4 そして前半で書いた男女の非対象性から、前者には男性が、後者には女性が多い。

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