2007年1月17日 (水)

女性にとってセックスとは、究極的には「暴力」でしかあり得ないのだろうか?(もしかして)

【あぁ、女性の『異性として見られない男性から性的対象として見られることに対する嫌悪・恐怖感』は、こう考えれば良かったのか】

・セックスする友達というのなら文句は言わんが
http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20070116/p1
悪いですが、僕は、自分の裸をみて勃起する危険性のある男とは友達になれません。一緒に寝てたら、夜中のベッドに入り込んで、体中さわりまくるような男も論外です。危険すぎるからです。

ですから、男女の友情は基本的に成立しえないというのです。危険なんですよ。性欲の対象として見られてしまうんだから。

ひざポン。以前から書いているように、僕は女性からしばしば聞く「異性として見れない男性から、性的対象として見られることに対する嫌悪・恐怖感」(一例)が理解できなかったんだけど、↑を読んだら非常にすんなり納得できた*1

つまりこれは、セックスが根源的に孕む「攻め側の暴力」に対して受け側が感じる恐怖・嫌悪なのかと。つまり「女性にとっての異性として見られない男性」と対になるのは「異性愛男性にとっての同性愛男性」ということになる、と。レイプ・痴漢に対する男女の感覚差と同じ話なわけね。

・レイプ・痴漢の非対称性
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20060507#p2
性暴力の犠牲になった女性の対称として、男性が女性にレイプ・痴漢されてもイヤじゃないなどという話をしばしば見かけます。

思うに、これは性暴力の「異性性」を過度に評価しているのではないでしょうか。

実際に苦痛や恐怖を感じるのは、「異性性」に対してではないと思います。

恐らく

1.自分より強く大きい者に
2.抵抗力を奪われて
3.性的な暴力を受ける(ペニスを挿入される、など)

ことが苦痛や恐怖の源泉なのでしょうから、例えば男性がレイプの恐怖を想像しようとするならば、「痴女に襲われる」のではなく、「屈強な男性に犯される」ことを考えるのが「対称」としては妥当といえるでしょう。

確かに異性愛者である僕も、それまで友人だと思っていた「攻め」の同性愛男性に告白されたとしたら、「異性として見れない男性から告白された女性」と同じ様に「友人としてはいいけど、恋人としてはちょっと……」ということになってしまいそうだ。「恋人になること」と「セックスパートナーになること」が殆どイコールになる、現代の恋愛関係を念頭に置けば。

僕はこれまで女性が感じるこの「恐怖」を、「望まない妊娠に対する恐怖」と考えていて、確かにそれは女性特有の恐怖としてあると思うんだけど、もっと根本的にはこの「攻め側の暴力に対する受け側の恐怖」があって、それにプラスして女性の場合には「望まない妊娠に対する恐怖」があると考えるのが自然なのかなぁ、と思った。


【セックスは女性にとって、『暴力』でしかないのだろうか?】
もし、ここまで書いたことが正しいとしたら、異性愛男性の僕にとって疑問なのが、

  1. 女性は「攻め」を「暴力」として捉えることなく受け入れられる相手(恋愛しても良い相手)をどうやって選別しているのか。
  2. そもそも女性にとって「暴力」と感じられないセックスなんてものが、存在するのか。
ってことなんだけど……

この心理は、セックスにおいて必然的に「攻め」の役割を担うことになる、異性愛男性の僕にとって、根源的には理解できないもののような気がする。この点については、女性に意見を聞いてみたい*2

フェミニズムを学ぶ男性は、自分に課せられた「能動」のセックス・ジェンダー双方の役割において、女性に対する深い罪悪感を感じるようになるという話をよく聞く。その罪悪感の背景には、性関係における「必然的暴力」に対する罪悪感が存在するのかも知れない。

もし女性にとって、性関係が根本的には「暴力」でしかないのだとしたら、その「暴力」を女性に受け入れさせている(あるいはそのように見せている)「力」は一体なんなんだろう。男性中心社会の規範制度?子孫を残せという遺伝子の命令?「恋愛」というイデオロギーによる洗脳?

僕にはよくわからない。

ただひとつ言えることは、これまで人類が子孫を残し、生き残ってきたということは、女性がなんらかの理由で男性からのセックスという「暴力」を受け入れてきた、あるいは受け入れさせられてきたということだ。

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*1 烏蛇さんと議論したりしたけど、結局感覚的に理解できなかったんだよなぁ。

*2 もしかして、僕が「受け」として「攻め」の同性愛男性と恋愛関係になって、相手に「攻め」させても良いと考えられるような感情を経験すれば、理解できるようになるんだろうか?

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2006年12月28日 (木)

「抑圧」を「弱者貶め型」と「強さ強要型」に分けてみる。そして後者に対して弱者は、弱者であることに開き直るべきだと思う

【イイネ!(・∀・)】
イケメンは女性に優しい。(非モテにまつわる抑圧の話)
女性専用車両に乗れない“恋愛強者”たち

このへんの記事を読んで。どちらもいいトコ突いている良記事だと思う。ナツさんの記事はパッと見、「現代はむしろ女性優遇社会じゃね?」というParis713さんの意見への反論のようにも見えるけど、論旨は↓の部分だと読み取った。

http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2006/1227210145.php
こうなると、男性と女性、どちらの抑圧が強いかというのは水掛け論にしかならない。性別や年齢や個人の実感によって様々という話になって終わりだろう。

一人勝ちしているのは抑圧など歯牙にもかけないモテ女とモテ男だけであり、それ以外の男女は、多かれ少なかれレッテル貼りや、それによるプレッシャーに苦しんで生きていると言える。

性的視線に晒されて抑圧された女性は、性的視線に晒されなくなることによっても抑圧される。

「強者である」ことと、「強者であると見なされる」ことは違う。


激しく同意。ジェンダー学は、そもそも「フェミニズム」「メンズリブ」と分れていることがおかしくて、「ジェンダリズム」とかに改名して、男女関係なくジェンダー規範の圧力を問題にすべきだと思うのですよ、僕は*1。「男VS女」じゃなくて、「規範適応者VS非(不)規範適応者」。前も同じこと書いたけど。


【この図式で『主張』を行うことの困難】
でも、実際この「規範適応者VS非(不)規範適応者」の図式で「主張」を行おうとすると、色々厄介な問題が生まれてくるとも思うのですよ。そもそも「社会規範」自体がある種の「正義」として働いているので、「非(不)規範適応者」の立場からモノを言うということに正当性を持たせることが、まず難しい。

僕が思うに、「抑圧」には社会制度や慣習の影響で弱者に貶められる「弱者貶め型」と、「強者で当然」という「強さ強要型」のふたつのタイプがあるんじゃないかと。

このうち前者を主張するのは「権利拡大を訴える」というポジティブな主張になるから、比較的共感も得やすい。でも後者は「権利を行使したくない」もっと強く言えば「社会に沿えない/沿いたくない」という、ネガティブな主張になってしまう。これが規範を正義とする側からは「甘え」と取られる。

こういった理由から、これまでジェンダーの活動は、専ら前者のポジティブな側面を全面に出して活動してきているように見える。たとえばフェミニズム的な「女性にも参政権を」「女性にも社会進出を」や、メンズリブ的な「主夫になってもいいじゃないか」は、ポジティブな主張といえる。まとめると、↓みたいな感じ。

タイプ
抑圧内容
主張の方向性
弱者貶め型・女性には参政権がない
・男性が主夫をすることに対する偏見
~したい
ポジティブ
強者強要型・男/女は ~して、できて当然~したくない/できない
ネガティブ←甘え!

でも今回言われている「強者と見なされているゆえ、それに乗れないことに対する抑圧」は、「社会規範(正義)」の面からもの凄く批判され易い。「強者強要型」の主張をしたフェミニストに対して「モテないブス女の僻みだ」とか、メンズリブの人に対して「会社に居場所がない連中が逃げてる」とかいう批判は、簡単にできるだろう。たとえば↓のotsuneさんの発言は、その典型といえる*2
http://b.hatena.ne.jp/entry/ http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20061228/1167235936
otsune 「女は年取ると恋愛弱者」って大雑把だな。単にそう言う事言っている人が「私が恋愛弱者なのは歳をとったからだ」と責任転嫁しているだけじゃね

そしてこれまでジェンダー論をやってきた人達は、こういった言説に対抗するために、あれこれ理論武装してきたんじゃないかと感じられる。

でも、「強さ強要」タイプの抑圧に対抗するためには、このやり方じゃぁダメなんじゃないか。むしろ、「私はブスなので、恋愛強者になれません。でも、それがなにか?」とか、「俺はダメ社員で仕事ができないので、金も地位もありません。でも、それがなにか?」とか、積極的に弱者であることを開き直る方向に行くべきなんじゃないかと思う。

だって、「男らしさ規範」にしろ「女らしさ規範」にしろ、屁とも思わず乗りこなしていく男女はいるわけで、そういう人間に比べたら、事実圧倒的に「負けてて弱い」わけですよ、フェミニストにしろメンズリブな人にしろ。「社会規範」をものさしに計った場合。

だからそこはもう、負けを認めちゃったほうがいい。自分の弱さを正当化するために、わざわざポジティブな理論を構築する必要なんてない。

そんな不利なルールのクソゲー、俺はプレイする気はありません。正当性なんざクソ食らえ。「負けたけど、だから何?」これですよ。「弱くていいじゃないか。ダメ人間だもの」。

最近の弱者男性(非モテ)の中には、革命という反社会な方向性に行く人もいるようですが、僕はこの「脱社会路線」でいきたいですね。ラクチンだし。

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*1 ……てなことを別館でも書いてたら、クィアがそれだよと指摘を受けました。ありがとうございます。

*2 【追記 2006.12/29 AM 10:00】 コメント欄でotsuneさんから、この引用は誤読だとの指摘がありました。この文脈で僕は、otsuneさんの発言を「それは甘えだ」という高齢女性への批判として解釈していますが、otsuneさんの意図は「高齢女性にも恋愛強者はいるよ。高齢女性=恋愛弱者だというのはMasaoの思い込みだよ」というMasaoへの指摘である、とのことです。30歳やマダム層のほうが恋愛概念において好印象な文化を持つところもある、と。この意図の発言をここで引用することはふさわしくないので訂正します。詳しくは、コメント欄をご覧ください

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2006年8月11日 (金)

「フェミニズムはみんなのもの」だって、騙された俺がバカだったよ

【「『男性のセントラリティ(中心性)』という現状認識がフェミニズムの大前提」ですか、そうですか】

・コミットメントを欠く「フェミニズムへの助言」への懐疑
http://macska.org/article/151
(※改行の関係で引用が読みにくいので、原文に当たることを推奨)

フェミニズムの運動は社会における男女の平等を主張しつつ、現実の政治的行動において必ずしも女性の問題と男性の問題を対等に扱うということはしない。それは運動内において「男性のマージナリティ(周縁性)」が「フェミニズムの条件」(フェミニズムにおいて男性は周縁化されるべき)だからなのではなく、社会における「男性のセントラリティ(中心性)」という現状認識がフェミニズムの大前提だから。わたしはフェミニズムが女性だけのものだとも、女性だけを救済するものだとも思わないけれども、男性と女性とでは同じようにフェミニズムに関わることはできないと思う。男性と女性ではフェミニズムが問題とするジェンダーの権力構造における立ち位置が違うのだから、男性がフェミニズムのあり方についてあれこれ意見を言うのであれば加藤氏が言うような自己観察的な「警戒」が決定的に必要になる。それは男性を周縁化しているわけではなくて、男性が中心に居座っている(あるいは否応もなく居座わらされている)ことへの倫理的な態度を求めているのね。

上野千鶴子氏や kmizusawa さんの言う「フェミニズムには男性を救済する義理はない」という発言を、ただ単に「女性問題は女性が、男性問題は男性がやるべきだ」という自己責任・自己救済論として解釈するのは間違い。かれらの発言にはその大前提として「社会における男性のセントラリティ」という現状認識があるから、周縁化された集団の地位向上を目指す運動であるフェミニズムは、中心にいる集団への配慮を求められるいわれはないと言っているわけ。つまり、フェミニズムに「男性を救済する」義理がないのは、フェミニズムが「女性」のことだけを優先する運動だからなのではなく、「男性」という集団が中心化されているからだ。

この点はきちんと言っておかないと、フェミニズムの立場から「少数民族やクィアの問題はかれら自身がやるべきでフェミニズムとは関係ない」という主張を容認してしまうことになる。わたしは決してフェミニズムが「女性」の利害だけを最優先する運動だとは思っておらず、より普遍的に社会的公正を追求するものだと思っている。さらに言えば、フェミニズムは「弱者男性」に配慮しろという議論をわたしは認めないけれども、パートタイム労働者・派遣労働者・日雇い労働者・家庭内労働者など不安定かつ低収入で働いている人たちーーその多くは女性ーーやその他の社会的弱者に配慮し、かれらを積極的に支援する義務なら、あると思っている。

「パートタイム労働者・派遣労働者・日雇い労働者・家庭内労働者など不安定かつ低収入で働いている人たちーーその多くは女性ーーやその他の社会的弱者に配慮し、かれらを積極的に支援する義務なら、あると思っている」のに、「「弱者男性」に配慮しろという議論をわたしは認めない」ときましたか。なるほど、なるほど。

で、その理由が「社会における「男性のセントラリティ(中心性)」という現状認識がフェミニズムの大前提だから」ね。

なんのことはない。早い話、大前提としてフェミニズムにとって「男」は批判対象であり「敵」だから、他の「弱者」とは扱いが違いますよ、ということじゃないですか。macskaさんは、

フェミニズムに「男性を救済する」義理がないのは、フェミニズムが「女性」のことだけを優先する運動だからなのではなく、「男性」という集団が中心化されているからだ。

と書く。でも僕にはこれは「男性という集団が中心化されている」から、「フェミニズムは「女性」のことだけを優先します」と言っているようにしか読めなかった。makskaさんは、「パートタイムや派遣労働者」への支援について語るとき、ご丁寧に「ーーその多くは女性ーー」という注をつけることを忘れない。この事実も、「フェミニズムは「女性」のことだけを優先します」というmakskaさんの思想を雄弁に物語っている。


【「男性のセントラリティ(中心性)」を自明としない僕は、フェミニズム的に「ありえない」ようだ】

http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2006/07/post_95cb.html
実際に抑圧されているのは「男」でも「女」でも「ゲイ」でもなく、「社会から求められるジェンダー規範に乗れない/乗りたくない人たち」ですよ。社会規範に乗れている人たちは、どんなジェンダーを持っていようと、抑圧なんかされていないんですよ。対立しているのは「男VS女」ではなく、「規範適応者VS非(不)規範適応者」ですよ。

僕が↑の記事で主張したのは、まさに「社会における「男性のセントラリティ(中心性)」という図式自体を疑い、「規範適応者VS非(不)規範適応者」のほうが現実に即しているだろうということだった。

でも、なるほど。僕の主張はフェミニズムの大前提を覆すものであり、フェミニズム的には絶対に認められないものだったというわけですか。

これに似たようなことは、最近読んだ記事によると上野千鶴子氏も言っているようだから、これはmacskaさんの個人的な見解ってわけでもないんだろう。

http://www.pressplan.jp/08seisho/index.html
上野千鶴子は、マルクス主義的フェミニストである。マルクス主義的フェミニズムは、男性/女性の関係をブルジョワ/プロレタリアンや先進国/発展途上国といった搾取/被搾取、強者/弱者の関係で捉え、後者の前者からの解放を主張する。

そうなってくると、そもそも「男性のセントラリティ」や、「男性=強者、女性=弱者」という図式自体がおかしくね?と考える僕は、フェミニズム的には本当に「ありえない」存在なんだろうな。最優先リストラ対象どころか、「つーか、そもそも敵?入社資格ねーし?」みたいな?

うん、もやもやが解けた。早い話、僕はフェミニズムってものを勘違いしていたってことですね。

http://www.wako.ac.jp/~hotta/lesson/print/text/teigi.html
フェミニズム運動が進む中で、女性たちは、性差別的な意識や行動を支えている集団は男性だけではないことを悟った……女性もまた、性差別的でありうるのだ。男性敵視感情はもはや、女性運動を支えるものではなくなった。運動の焦点は、あらゆる点でジェンダーにおける公正さを求めることに移ったのである。

これは少し前に読んだ「フェミニズムはみんなのもの」っていう本の一文。これは僕のジェンダーに対する考え方に近い。だから共感した。でもなんだ、結局フェミニズムは「みんなのもの」ではなく「女のもの」だったということですか。

いやね、フェミニズムが「女のもの」なら、それはそれでいいんですよ。ただ、↑みたいな本とか、「ジェンダーフリー」ってスローガンに、うっかり僕が釣られただけですから。変に期待しちゃった僕がバカでした。今後は「フェミニズムは女のもの」として、正しく認識を改めることにします。本当にありがとうございました。


【追記】
ちょっと気になったので、一応追記。

「『弱者』一般の支援をことごとく否定し、『弱者男性』の救済だけをことさら主張する一部論者」を批判してきた。

mcskaさんは、僕が「フェミニズムに自分のアジェンダを押し付けようとしている可能性がすごく大きい」とか「男性の側に利益誘導」しようとしているように「見える」と書いているから、この「一部論者」に僕が入っているのかも知れないけど、もしそうだとしたら、非常に心外。僕があの記事で書いたことは、

・「男=強者、女=弱者」自体がおかしくね?
・むしろ「規範適応者=強者、規範不(非)適応者=弱者」じゃね?
・「規範不(非)適応者は抑圧されても仕方ないの?」は、もっと普遍的な「弱者」にも広く適用できる概念じゃね?
・フェミニズムはそういう運動だと思っていたのに、ガッカリだ!*1

の4点で、「『弱者男性』の救済だけをことさら主張」なんてしていない。もし僕も含んで「一部論者」と言っているのだとしたら、それはもの凄い誤解。ここはハッキリと、声を大にして指摘しておく。

僕が批判しているのは、「『弱者』一般の支援」に「弱者男性」を含むことを、フェミニズムはなぜ認めないのかってこと。これについてはフェミニズムの大前提として、「社会における「男性のセントラリティ(中心性)」という現状認識」があるということで、一応納得した。

もっとも、その大前提自体を、僕は認めませんけどね。


【追記2】
今回の記事では、macskaさんのいう「男性のセントラリティ」を上野千鶴子氏がいう「男性=強者」と同じ意味だと読み取ったけど、macskaさん的にはこのふたつは違うものなんだろうか?ちょっと気になった。もし違うなら、どこが違うんだろうか?

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*1 ちなみに僕の言うような主張は、「フェミニズム」より「クイア」が近いらしいと最近知った。

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2006年7月22日 (土)

僕が「社会規範からの抑圧」に執着する理由 ~ある脱オタ者の眼に映るジェンダー~

【僕の主張のバックボーン】
前回の記事について、いくつかの異論、反論が寄せられました。

「ジェンダーフリーではないフェミニズムには反対」論の自意識過剰と不寛容
フェミニズム 社会運動 ジェンダーフリー 男女 抑圧 当事者
見出し付け忘れてた。 フェミニズム 弱者男性 社会運動

確かにあの記事はツッコミどころはあると思いますよ。でも、僕がああいうなことを書いているのには、それなりの理由があるんですよ。

それを理解してもらうには、僕があの思考に至った過程を、過去の体験とからめて順を追って話していくのが一番だと思いました。少し長くなりますが、書いておきます。確かにここらへんを書かないと、僕の主張は理解されづらいとも思うので。なぜ僕が「社会規範からの抑圧」という概念にこれほど執着するのかという、僕のバックボーンを知っていただければ、と思います。


【『オタク』という『若者男性らしくない』存在】
僕の生い立ちの詳細は、↓で読むことができます。

【症例2】オタクコミュニティ内における成功体験が、『脱オタ』推進にも影響した一例

ここで書いたように、僕は10代、オタクでした。この時代は、かなり馬鹿にされて育ちました。いじめに遭ったりもしました。不登校気味になって普通科の高校で留年して、通信制高校を出たりしました。とても暗黒時代な感じでした。

で、20代前半で脱オタしました。脱オタの一貫として、ナンパ師になってみたりしました。それ以来、驚くほど生きやすくなりました。で、現在に至ります。

なぜ、オタクがキモがられたり差別されたりモテなかったりするのかというと、「若者男性らしさという社会規範」に乗っていないからだというのが僕の持論です。オタクのイメージを創造してみてください。挙動不審・優柔不断・デブ・子供っぽい趣味嗜好・スポーツが苦手……どれも「若者男性らしさ」とはかけ離れた存在です*1

そして脱オタというのは、オタクが「若者男性らしさという社会規範」に乗り直すことだと考えています。これは、「太った若者女性」が「若者女性らしさ」という社会規範に乗るために、ダイエットに励むこととよく似ています。このふたつは、共に「若者男性・若者女性というジェンダーの社会規範に乗るための行動」だといえるでしょう(参照)。

実際僕は、女性のダイエット経験者や整形経験者の体験談を聞くと、あまりにも共感できて、びっくりします。中でも僕が一番共感するのは、「世間には『外見なんて』といった風潮もあるけど、実際痩せたらもの凄く生き易くなった」「整形したら世界が変わった」という、ダイエット当事者の女性の声です。

僕も彼女等と同じように、脱オタしてから世界が変わりました。驚くほど生きやすくなりました。無理をしてでも「若者男性らしくなる」「若者女性らしくなる」ことは、確かにこの世界で若者が「強者」になることへの近道だったのです。

http://d.hatena.ne.jp/nitino/20060711
これ言うとやらしいけど、でもやっぱ痩せて良かったのは、良かった。のよ。らくちん。ほんとらくちんな人生になった。でもそれをしろって言えるか、解らない。摂食障害は…他の誰にもあんな酷く辛い思いはして欲しくないってずっと、思ってて、そゆのがあるのよ。

僕はこうした女性の告白と自分の体験とを照らし合わせるたびに、そこに「共感」を見出します。「若者男性・若者女性というジェンダーの社会規範に乗るための行動」に、ジェンダーの垣根はないと感じます。「ジェンダーという社会規範からの抑圧」というテーマで、弱者男女は共感し合えると感じるのです。


【『もの凄く生き易く』なって見えたもの】
こうして脱オタした僕は「強者」になることができました(少なくとも以前よりは)。これは僕にとって、とても嬉しいことでした。

でも同時に、僕はこうも思いました。僕が脱オタしたときにやった「自分改造」ってなんだったんだろう、と*2

「改造」以前の自分は、確かに「若者男性らしく」はなかった。でも、それってそんなに「悪い」ことだったの?「若者男性の規範に乗る」ことは、そんなに偉いことなの?こんなに周囲の人間は、僕の「若者男性らしさ」を重視していたの?なんでこんなに周囲の(特に女性の)態度が違うの?

僕は心のどこかで、脱オタしたくらいで周囲の評価が変わるなんてことは、あって欲しくないと願っていたのだと思います。

でも現実には、そうはならなかった。脱オタにより「驚くほど生き易くなった」僕は、それと同時にオタクという「若者男性の規範に乗っていない存在」がどれほど酷く抑圧されているのかということを、身を持って知ることになったのです。

こうした体験を経て、僕の中には「『若者男性らしさ』という社会規範への抑圧」に対する、大きな疑問が沸いてきました。そしてそれが「ジェンダーという社会規範からの抑圧」への疑問へと変化し、さらには世の中の「社会規範に乗っていないすべての人々」への抑圧に対する疑問へと変化するのに、そう時間はかかりませんでした。

「確かに昔の俺も含め、あの人たちは『社会規範』に乗れてないよ。でも、そこまでの『生き辛さ』を感じさせられるような悪いことを、あの人たちはやっているの?」

こうした視点から見たとき、僕の眼に世の中のあらゆる「生き辛さ」は「社会規範による抑圧」によるものだと映りました。


【『ツッコミ所満載の表』の意味】
僕が前回の記事で書いた「ツッコミどころ満載」の表は、こうした考えから生まれたものです。確かに荒削りでツッコミ所満載ですが、あの表に書いた考え方自体は、それほどおかしなものではないと思っています。

そして僕は、あの表を根拠に「すべての運動にコミットしろ」と主張したいのではありません。僕自身にしても、「元当事者」という観点から、主に「オタク」と「ジェンダー」に関する差別に特に興味があり、それをテーマにブログを書いたり、本を読んだりしています。あの表に書いたすべてのテーマについて勉強しているとはとても言えないし、労力的にも不可能です。

でも僕は、それ以外の「社会規範抑圧者」のことも、同じ問題を共有する「仲間」だと考えています。僕自身が「社会規範からの抑圧」を強く体感していたので、他の人に同じような抑圧を体験して欲しくないと考えているからです。

そしてこれが、僕がここで書いたような、「『運動しろ』とまでは言わないが、『配慮しない』のはダメだ」という主張に繋がっていくわけです。

まぁこれは「主張」というよりは、こうであってほしいという僕の「希望」と言ったほうが正確かもしれませんが……


【『男女のジェンダー問題は、男女で解決する』で良いじゃない】
ここで、僕の前回の記事に戻ります。

まず皆さんは、僕がフェミニスト「が」弱者男性問題も解決すべきだと考え、そこを批判しているのだと思っているようですが、これは違います。

前回の記事で僕は、「ジェンダーフリーは『男』『女』『同性愛者』を分けて考える必要はない」と書きました。「男性問題は男性が、女性問題は女性が」ではなく、「男女問題を男女が」解決するべきだというのが僕の主張です。

しかし現実問題として、確かに現在のフェミニズムは、女性に比率が偏っています。抑圧されていると感じているのであれば、弱者男性本人も、もっと声を挙げるべき。これは、多くの方の指摘に同意します。

しかしそれが「フェミニズムとの合流」であれ、「マスキュリズム」と呼ばれるものになるのであれ、このふたつのジェンダー運動は「連帯」できると考えています。「男女」という縦の連帯ではなく、横の連帯が可能です。僕はそう思います。

僕が批判したのは、フェミニストが弱者男性のために「運動しない」ことについてではなありません。弱者男性に対し「配慮しない」態度についてです。「女のため」と言ってしまう姿勢についてです。「男のことは男が、女のことは女が」と、問題の区分線を男女間に置いてしまうことについてです。これでは本来近い問題を抱え、連帯できるハズの両者は、いがみ合うばかりでしょう。

僕が主張したいのは、「フェミニズムは弱者男性を救え」ということはなく、「男女問題は、男女が連帯して解決できる」ということです。そしてそのためには、フェミニズムは弱者男性にも「配慮」し、弱者男性もまた、自分が感じる抑圧について、もっと積極的に声を挙げていくことが必要だと思います。

僕が言いたかったのは、つまりはこういうことです。僕の真意が、少しでも多くの方に伝わることを、祈ります。

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*1 というか本当は順番が逆で、こういった「若者男性らしくない」特徴を持った者が「オタク」と侮蔑されやすくなる。

*2 期間1年、費用約200万円、会社を潰して無職になる等のコストがかかっています。

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2006年7月14日 (金)

本当に抑圧されているのは誰か ~「フェミニズム」と「ジェンダーフリー」は別物なの?~

【実際に抑圧されているのは『男』でも『女』でも『ゲイ』でもなく、『社会から求められるジェンダー規範に乗れない/乗りたくない人たち』ですよ!】

・kmizusawaの日記 - 順番が違う
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060712/p1

フェミニストには、弱者男性の面倒を見てやる義理はねぇ!というご意見。激しい違和感。

確かに義理はないんだけどさ。もしフェミニズムが「ジェンダーフリー」なり「男女平等」なりをを実践しようという運動なのだとしたら、弱者男性のジェンダー問題も、当然視野に入ってくるんじゃない?っていうのが僕の考えだから*1

いやね、僕はフェミニストの現場で運動している人間ではないから「フェミ業界」の内情は知らないし、「バックラッシュ!」には「『フェミニスト=ジェンダーフリー/男女平等』ってわけではない」みたいなことが書いてあったから、僕の今回の記事は「ジェンダーフリーや男女平等を謳うフェミニスト」に限って話を進めさせていただきますけれども。

僕の認識では、「ジェンダーフリー」ってのはおおまかに言って、「あらゆる性がジェンダーという社会規範の抑圧・押し付けからくる生きづらさから解放され、自由に生きる権利を得る」ことが目標なんだよね?

もしそうだとしたら、「男」と「女」と「同性愛者」を別のものとして考える必要は、そもそもないんですよ。

男でも女でも同性愛者でも、社会から与えられた「男らしさ」「女らしさ」「ゲイらしさ」の規範を、特に疑問に思わずに実践してる人はいる。そういう人は「ジェンダー規範から来る生きづらさ」なんて感じないでしょ?むしろ「男らしく」「女らしく」「ゲイらしく」あることが、彼・彼女等の幸せに繋がっている。

フェミニストは、「すべての女性は女性であることの苦しみを共有している」とシスターフッド的にいうかも知れないけど、僕は「女性というジェンダー特有の既得権」ってあると思うし*2、そうした既得権に乗って幸せを謳歌している女性は、たくさんいると思いますよ。こういう人たちは、社会の需要と個人の供給がマッチした、「幸運な人たち」。

でも、世の中はそんな「幸運な人たち」ばかりじゃない。「男だけど男らしさに馴染めない」「女だけど女らしさに馴染めない」「ゲイだけどゲイらしさに馴染めない」。そういう人たちもたくさんいる。

で、そういう「ジェンダー規範に乗れない/乗りたくない人たち」が「規範に載れなくたって別にいいじゃん!そんなとこで差別すんなYO!」と声を挙げるのが、「ジェンダーフリー」ってことなんだと僕は思ってる。

実際に抑圧されているのは「男」でも「女」でも「ゲイ」でもなく、「社会から求められるジェンダー規範に乗れない/乗りたくない人たち」ですよ。社会規範に乗れている人たちは、どんなジェンダーを持っていようと、抑圧なんかされていないんですよ。対立しているのは「男VS女」ではなく、「規範適応者VS非(不)規範適応者」ですよ。ここまでは、以前別館でも書いたとおり。

http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20060603/1149304643
フェミニストやメンズリブ(マスキュリスト)が主張すべきは、「女は抑圧されている」でも「男は抑圧されている」でもなく、「ジェンダーの規範に乗れない/乗りたくない人間は抑圧されている」ということですよ。でこれは、「社会に適応できない/したくない人間は、抑圧されても仕方がないのか」という、より大きな問題に繋がっていくと思うんですよね。


【フェミニズムとジェンダーフリーは別物なのか】
僕はジェンダーフリーの思想は素晴らしいものだと思うし、共感もする。だからそれを実践している(と思い込んでいた)フェミニズムにも興味がある。だからフェミ的な思考をしていると自認するkmizusawaさんに、

今のところはやっぱりフェミニズムは世の中のあり方に対して「女性にとってどうか」ってのを第一に考える思想・運動なんだから。

みたいなことを言われてしまうと、もの凄く萎える。あぁ、「フェミニズム」ってのは、あくまで「女の、女による、女のための運動」でしかないんですか、と*3

もしフェミニズムが僕が感じたように「ジェンダーフリー」を目指すものではなく「女性のための運動」なのだとしたら、僕はがっかりする。っていうか、した。そうなのだとしたら、僕は「『ジェンダーフリー』には賛成だけど『フェミニズム』には反対です」という立場を取る。だってそれ、「ジェンダーフリー」じゃないもん。


【すべての社会運動は、『社会規範からの抑圧に対する抵抗』じゃね?】
はてな別館からの引用でも少し触れているけど、僕はジェンダーフリーに限らず全ての「社会運動」は、「社会規範への抵抗」だと思ってる。表にまとめると、↓みたいな感じ。

ジェンダーフリー「ジェンダー」という社会規範への抵抗
人種解放運動「人種(白人至上主義)」という社会規範への抵抗
ニート「労働」という社会規範への抵抗
オタク「ライフスタイル」という社会規範への抵抗
不登校「学校」という社会規範への抵抗
非モテ・喪男「恋愛」という社会規範への抵抗
ひきこもり「社会」そのものへの抵抗

この考えでいくと、これらの「運動」は、「社会規範への抵抗」という意味で、すべて同じ目的を持つものに見える。それは、

「社会規範に適応しない/適応できないからといって、差別すんなYO!」

ということ。すべての社会運動は、「社会規範という抑圧(正義?)」への抵抗運動なんですよ。

だから僕は、これらの「社会規範への抵抗運動」をやっているにも関わらず、「女のことしか考えない」「ひきこもりのことしか考えない」「ニートのことしか考えない」「非モテのことしか考えない」ような運動は、好きじゃない。自分とは違う属性を持つ他者への「社会規範からの抑圧」に、あまりにも鈍感だと思う。酷いダブスタだと思う。

だから、「ジェンダーという社会規範」へ抵抗しているにも関わらず「シスターフッド」を掲げ、「男VS女」の図式でモノを考えるような系統の「フェミニスト」には、違和感を覚える。

kmizusawaさんは、

男性に配慮してないからフェミニズムはダメだってのはなんか変だよね。

と書く。これに対し、僕はハッキリと「それはダメな運動です」と答えたい。少なくとも僕にとって、それは酷いダブスタであり、「ダメな運動」です。

確かに差別が可視化すらされていない段階では、自分たちのことを強く主張する必要があったのだと思う。でも、フェミニズムがある程度の成果を挙げてきたいま、「女性のための運動」から「(男女関係無い)ジェンダー規範からくる抑圧への抵抗運動」へと、フェミニズムは変化してもよい時期なのではないでしょうか*4

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*1 ここに載ってる考えとほぼ同じ。

*2 こういうこと言うと怒られそうだけど、たとえば「主婦になりやすい」のも立派な既得権だと思うし、「消費による自己実現」をやりすいのも女性だと思う(ここで大月隆寛が言っているようなこと)。問題は、既得権を持ってない場所へ自分が行きたいと思ったときに行けないという、流動性のなさ。

もう少し具体的にいうと、「そんなに働きたくないのに『男らしさ』に囚われて過労死させられる男性」も、「外で働きたいのに『女らしさ』に囚われて家に閉じ込められている女性」も、どちらも同じように「ジェンダーという社会規範」の被害者であり、同じように不幸だということです。これは「不幸競争」するようなことではなく、「同じように不幸」なのです。

*3 kumizusawaさんも「いまのところは」と言っているわけで、変化の流れはあるんだろうけれども。

*4 ここらへん、はてぶでのsivadさんの意見「まあ、黒人奴隷解放運動が白人弱者を想定してなかったようなもの。でもそろそろ変わるべきだとも思う。 」に同感。黒人差別の喩え、あまりにも的確で感動しました。

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