宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」を読んで、この「サバイヴ感」「決断主義」こそが、5年ほど時代遅れの感性だと感じてしまった
【正直、むしろ古いと思った】
・さて次の企画は - 95年エヴァンゲリオン文化圏の終わり--知的な塹壕としての「ゼロ年代の想像力」スタートと、よしながふみ「フラワー・オブ・ライフ」完結について
↑の記事で絶賛されていたので、産まれて始めてSFマガジンを買って、「ゼロ年代の想像力」を読んでみたんだけど……
ゴメン、これ書いてる宇野常寛氏の感性こそが、時代遅れだと感じてしまった。「セカイ系」が90年代的な時代遅れの感性だとしたら、「決断主義」は2000年代前半的な5年くらい時代遅れの感性だと思う。
この文章で宇野氏は、「バトルロワイヤル」「デスノート」「ドラゴン桜」「野ブタ。をプロデュース」といった作品のヒットと、そこに共通する「サバイヴ感」を挙げ、90年代に東浩紀氏らが持ち上げたエヴァをはじめとした「引きこもり的感性」「セカイ系」は、「そんなものでは時代を生き残れない」と感じた若者にとっては、「甘い」「時代遅れの」思想だとバッサリ。変わって主流になっているのがこれら作品に共通した「他人を傷つけてでも行動する」という「決断主義」だというのだけれど。
これって、5年くらい前の古い感性なんじゃないかなぁ。宇野氏がいう「決断主義」は、小泉元首相が行った「構造改革」や「自己責任」に象徴されるネオリベラリズム的な思想だと思うんだけど、これが主流として力を持っていたのは、せいぜい2~3年くらい前までだったと僕には感じられる。
たとえば2000年代前半に盛り上がり、僕も実践した「脱オタ」なんていうのは、まさに「決断主義」的な行動だと思う。でもこちらの記事で少し指摘したように、この界隈にはもはや、かつてほどの盛り上がりも切実さも、そして最大の特徴であった「必死さ」もない。脱オタ系サイト最大手のひとつ「いちからはじめるファッション入門マニュアル」は数年前から毒気を抜いた大幅縮小営業となり、「脱オタ」という言葉の語源にもなった「脱オタクファッションガイド」もとっくに更新を停止。そしてその後、これらサイトの後継となるめぼしいサイトも見当たらない。このことは、脱オタの衰退を如実に物語っている。
この背景には、ネットを初めとした仮想世界のインフラ発達によって、「社会」や「現実」の価値が相対的にどんどん下がっていき、「現実」がすでに「サバイヴ」するに値しない程度の価値しか持たないと判断する層の増加があると僕は考えている。つまり、脱オタしてまで必死に適応するほどに、現実には価値が無いと判断する層が増えているということだ。↓の宮台真司氏の文章などは、まさにこの点を指摘したものとなっている。
| ・「第二次惑星開発委員会」編集の『PLANETS』vol.3で森川嘉一郎氏と四時間対談しました ■当初の構想では、「ときメモ」的な舞台設定のために、ハルマゲドン(第三次世界大戦)による「この現実」のクリアランス(一掃)が要求されました。とても興味深い。学校時代が実際に地獄だったにせよ楽園だったにせよ、はたまた地獄ゆえに楽園を夢想したにせよ、人々が「あの学校」を生きられなくなるのは、大人になって〈社会〉の重力がのしかかるからです。だから、重い「この現実」をクリアランスしないと、「あの学校」を生きられないという感覚は、自然なものです。 ■逆にいうと、それが自然であることが90年代半ばを象徴します。まだ〈社会〉の重力が強かったのです。ところが少し後になると、「あの学校」を生きるために「この現実」をチャラにするという設定が、要らなくなるのです。第三次大戦によるハルマゲドンが、「ときメモ」的な舞台設定のために要求されるということが、なくなる。〈社会〉の重力が弱まったのですね。いわば「この現実」が軽くなった。それはなぜでしょうか。 ■最大の理由は、データベース的消費の一般化のおかげで、「この現実」というもののフレームが一挙に拡大したこと。加えて、過渡的な理由としては、オウム事件が新しい自己記述を与えたこともあります。現実に向けてまともに乗り出さないことについて、今まで言い訳が必要だったのが、言い訳がいらなくなったのです。むしろ逆に「基地外が現実に乗り出すのは危険だ」ということになった。こうして「この現実」がデータベース化して軽いものになりました。虚構も含み込んだ「軽い現実」になったのです。自己の恒常性維持に利用可能なものが全て「この現実」になった。その意味での「軽い現実」です。この「軽い現実」がセカイと呼ばれるわけですね。 強調筆者 |
僕の感覚的には、こっちのほうがはるかにしっくりくるなぁ。一般人の大量流入によってネットと現実の境界が薄れ、仮想社会が著しく充実してきている昨今、もはや苦労してまで「現実」に適応し、サバイヴしなくても昔ほどに困ったこと(「唯一の主流」的な共同体からの疎外とか)にはならなくなってきた。むしろリアルよりも虚構を生きたほうが、よほど充実した人生を過ごせると感じている人も多いと思う*1。
つまり、90年代に種を蒔かれた「セカイ系」は、2000年代後半に「ネットの一般化」というインフラ整備の上で強化され、90年代よりもリアリティを持った新しいかたちに進化。いよいよ本格的に花開いた(宮台氏がいうところの『軽い現実』)。2000年代前半に一瞬起こったかに見えた「サバイヴ感」「決断主義」といった小泉ネオリベ的路線は、まだ「現実」が強い価値を持っていた時代の過渡期的現象に過ぎない。僕の考えを簡単にまとめれば、こういうことになる。
宮台氏の↑の文章が、宇野氏が編集長を勤める「PLANETS vol.03」に載っているということは興味深いけど、この本は明日発売ということなので、まぁとりあえずは買ってみて、どういうことが書いてあるのか拝見させていただくとしましょうか。
【追記 2007.06/04 AM.0:00】
| http://b.hatena.ne.jp/entry/http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html isnotit 決断主義は時代遅れ!ってのは宇野の人(反決断決断主義者・動員趣味者)も言ってたよ。/ネオリベ決断主義ブームがなけりゃ「現実が軽くなる」という季節も来なかったと思うけどね。 |
isnotitさんのこの指摘は非常に的を射たものだと僕は考えていて、たぶんシロクマさんもこのへんをターゲットにいま批判記事を書いている最中だと思うので(笑)、この点について簡単にお答え。
確かにisnotitさんが指摘するとおり、「決断主義」を通過した後でないと、人間は「軽い現実」に到達しにくい。なぜなら、一旦「決断主義」による試行錯誤を経過した後でないと、「現実」を相対化することが難しいから。だから宇野氏がいう「決断主義」は、まだ脱オタ等の「去勢」(転叫院さん的な使用法)を受けていない人間にとっては、いまでも充分に有効な言説だと思う。
ただ、それでもなおこの言説が時代遅れだと僕が言いたいのは、「決断主義」を経た上で、なお「仮想社会」を自覚的に選択するという層が、今後増えていくのではないかと考えているから。これを僕は「セカイ系2.0(仮)」(←ふるい)(いまさら2.0?)(死語)(←死語っていう言葉こそむしろ死語)(←あほのこだょ♪)とでも呼びたいとたった今考え付いたんだけど、この続きは次回の記事にでも書いてみようかと思います。
P.S ていうかこのネタは、クソタイ2の原稿に使おうと思ってたんだけどな……まぁいいや。ネットの「旬」逃がすのも嫌だし。
*1 もっとハッキリ、「10年前とは異なり、インフラの発達によって『ネットのこちら側』」の充実度が上がり、現実の価値が相対的に下がって云々」と書かれている文章も少し前読んだ覚えがあって引用しようと探したのだけれど、残念ながら見つけることができなかった。
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